第11幸与丸事件(だい11こうよまるじけん)は、日本漁船第11幸与丸の船長が、ソ連国境警備隊の指示により、日本の国内情報やテープレコーダーなどの物品をソビエト連邦に提供していたレポ船事件である[1]1974年昭和49年)12月4日北海道警察検挙[1]

概要 編集

第11幸与丸の船長は、日本の北方海域において漁業を営んでいたが、1972年(昭和47年)5月、択捉島沖で操業中、ソ連国境警備隊の船に横付けされ、ソ連の主張する領海内で安全に操業する代償として、沖縄の本土復帰に関する記事を報じた新聞の提供を指示された[1][注釈 1]。その後、船長は1974年11月までの間に計11回にわたってソ連と接触し、北方墓参団の名簿および根室カニ刺し網操業船名簿提供の要求を受けて、それらを手渡し、またテープレコーダーなどを日本より不法に持ち出していた[1]。さらに、ソ連側の要求は、北海道内に駐留する自衛隊の規模や自衛隊員の個人情報など軍事情報の収集を指示するなど次第にエスカレートしていった[1][注釈 2]

北海道警察釧路方面本部は、1974年12月4日(水曜日)、第11幸与丸の船長を逮捕した[1]根室簡易裁判所は、1975年(昭和50年)5月15日木曜日)、第11幸与丸の船長に対し、検疫法漁業法違反の罪で罰金5万円の判決を下した[1][注釈 3]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 択捉島、国後島色丹島歯舞群島の島々については、旧ソビエト連邦(現、ロシア連邦)が自国の領土として、また、基線から12海里を領海として実効支配しているが、それに対し、日本側は「日本固有の領土」として返還を求めている(北方領土問題[2]
  2. ^ 第11幸与丸の船長は、ソ連側と接触するとき、他の乗組員を船倉に閉じ込め、自分だけが船橋で交渉するというやり方をとっていた[1]
  3. ^ 日本にはスパイ活動そのものを取り締まる法律が存在しないため、防衛秘密の漏洩を含むスパイ活動事件を取り締まることができないのが実情である。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h 『戦後のスパイ事件』(1990)pp.39-40
  2. ^ 北方領土問題とは?”. 日本の領土を巡る情勢. 外務省 (2021年3月31日). 2022年6月2日閲覧。

参考文献  編集

関連文献 編集

  • 外事事件研究会『戦後の外事事件―スパイ・拉致・不正輸出』東京法令出版、2007年10月。ISBN 978-4809011474 

外部リンク 編集