第2次大隈内閣

日本の内閣

第2次大隈内閣(だいにじ おおくまないかく)は、伯爵早稲田大学総長大隈重信が第17代内閣総理大臣に任命され、1914年大正3年)4月16日から1916年(大正5年)10月9日まで続いた日本の内閣

第2次大隈内閣
内閣総理大臣 第17代 大隈重信
成立年月日 1914年大正3年)4月16日
終了年月日 1916年(大正5年)10月9日
与党・支持基盤 立憲同志会中正会、(大隈伯後援会→無所属団→)公友倶楽部
施行した選挙 第12回衆議院議員総選挙
衆議院解散 1914年(大正3年)12月25日
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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内閣の顔ぶれ・人事 編集

内閣発足時 編集

国務大臣

1914年(大正3年)4月16日任命[1]。在職日数482日。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 17 大隈重信   民間
伯爵
内務大臣兼任
外務大臣 28 加藤高明   貴族院
立憲同志会
男爵
内務大臣 26 大隈重信   民間
伯爵
内閣総理大臣兼任 1915年1月7日免兼[2]
27 大浦兼武   陸軍中尉
子爵
1915年1月7日任[注釈 1][2]
1915年7月30日免[3]
28 大隈重信   民間
伯爵
内閣総理大臣兼任 1915年7月30日兼[3]
大蔵大臣 17 若槻禮次郎   貴族院
立憲同志会
陸軍大臣 12 岡市之助   陸軍中将
陸大4期
初入閣
海軍大臣 7 八代六郎   海軍中将
海兵8期
初入閣
司法大臣 20 尾崎行雄   衆議院
中正会
文部大臣 26 一木喜徳郎   貴族院 初入閣
農商務大臣 25 大浦兼武   陸軍中尉
子爵
1915年1月7日免[注釈 1][2]
26 河野広中   衆議院
立憲同志会
初入閣
1915年1月7日任[2]
逓信大臣 22 武富時敏   衆議院
立憲同志会
初入閣
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

1914年(大正3年)4月16日任命[1]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 19 江木翼   内務省
法制局長官 16 倉富勇三郎   貴族院
無所属
事務引継
1914年4月25日免[4]
17 高橋作衛   民間[注釈 2] 1914年4月25日任[4]
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

参政官

1914年(大正3年)10月6日設置、1915年(大正4年)7月2日任命[5]

実は1916の年設置。

職名 氏名 出身等 備考
外務参政官 安達謙蔵 衆議院/立憲同志会 1915年8月12日免[6]
(欠員)
内務参政官 下岡忠治 衆議院/無所属団 1915年8月12日免[6]
(欠員)
大蔵参政官 濱口雄幸 衆議院/立憲同志会 1915年8月12日免[6]
(欠員)
陸軍参政官 真鍋斌 貴族院/予備役陸軍中将/男爵
海軍参政官 早速整爾 衆議院/無所属
司法参政官 田川大吉郎 衆議院/中正会
文部参政官 桑田熊蔵 貴族院
農商務参政官 町田忠治 衆議院/立憲同志会
逓信参政官 藤沢幾之輔 衆議院/立憲同志会
副参政官

1914年(大正3年)10月6日設置、1915年(大正4年)7月2日任命[5]

職名 氏名 出身等 備考
外務副参政官 鈴置倉次郎 衆議院/立憲同志会 1915年8月12日免[6]
(欠員)
内務副参政官 鳥居鍗次郎 衆議院/立憲同志会
大蔵副参政官 大津淳一郎 衆議院/立憲同志会
陸軍副参政官 三浦得一郎 衆議院/立憲同志会
海軍副参政官 田中善立 衆議院/立憲同志会
司法副参政官 関和知 衆議院/立憲同志会
文部副参政官 大隈信常 衆議院/無所属団
農商務副参政官 坪井九八郎 貴族院/無所属(公正会)/男爵
逓信副参政官 荒川五郎 衆議院/立憲同志会

内閣改造後 編集

国務大臣

1915年(大正4年)8月10日任命[7]。在職日数427日(第2次通算908日。第1次、第2次通算1,040日)。

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣総理大臣 17 大隈重信   (民間→)
貴族院
無所属団
(伯爵→)
侯爵
外務大臣兼任 留任
外務大臣 29 大隈重信   民間
無所属団
伯爵
内閣総理大臣兼任 留任
1915年10月13日免兼[8]
30 石井菊次郎   外務省
男爵
初入閣
1915年10月13日任[8]
内務大臣 29 一木喜徳郎   貴族院
大蔵大臣 18 武富時敏   衆議院
立憲同志会
陸軍大臣 12 岡市之助   陸軍中将
(陸士旧4期)
留任
1916年3月30日免[9]
13 大島健一   陸軍中将
(陸士旧4期)
初入閣
1916年3月30日任[9]
海軍大臣 8 加藤友三郎   海軍中将
海大甲号1期
初入閣
司法大臣 20 尾崎行雄   衆議院
中正会
留任
文部大臣 27 高田早苗   貴族院
無所属
初入閣
農商務大臣 26 河野広中   衆議院
立憲同志会
留任
逓信大臣 23 箕浦勝人   衆議院
立憲同志会
初入閣
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官

1915年(大正4年)8月10日留任[要出典]

職名 氏名 出身等 特命事項等 備考
内閣書記官長 19 江木翼   内務省 留任
法制局長官 17 高橋作衛   民間 内閣恩給局長 留任
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

参政官

1915年(大正4年)8月21日任命[10]

職名 氏名 出身等 備考
外務参政官 (欠員) 1915年10月30日まで
柴四朗 衆議院/立憲同志会 1915年10月30日任[11]
内務参政官 藤沢幾之輔 衆議院/立憲同志会
大蔵参政官 加藤政之助 衆議院/中正会
陸軍参政官 真鍋斌 貴族院/予備役陸軍中将/男爵 留任
海軍参政官 早速整爾 衆議院/無所属 留任
1915年12月26日免
(欠員) 1916年1月19日まで
岡部次郎 衆議院/中正会 1916年1月19日任
司法参政官 田川大吉郎 衆議院/中正会 留任
文部参政官 大津淳一郎 衆議院/立憲同志会
農商務参政官 町田忠治 衆議院/立憲同志会 留任
逓信参政官 木下謙次郎 衆議院/立憲同志会
副参政官

1915年(大正4年)8月21日任命[10]

職名 氏名 出身等 備考
外務副参政官 (欠員) 1915年10月30日まで
大隈信常 衆議院/無所属団 1915年10月30日任[11]
内務副参政官 鳥居鍗次郎 衆議院/立憲同志会 留任
大蔵副参政官 紫安新九郎 衆議院/無所属団
陸軍副参政官 三浦得一郎 衆議院/立憲同志会 留任
海軍副参政官 田中善立 衆議院/立憲同志会 留任
司法副参政官 関和知 衆議院/立憲同志会 留任
文部副参政官 大隈信常 衆議院/無所属団 1915年10月30日免[11]
小山谷蔵 衆議院/中正会 1915年10月30日任[11]
農商務副参政官 坪井九八郎 貴族院/無所属(公正会)/男爵 留任
逓信副参政官 荒川五郎 衆議院/立憲同志会 留任
勢力早見表
内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く。)
出身 国務大臣 参政官 副参政官 その他
りつけんとうしかい立憲同志会 3 4 5
むしよそくたん無所属団 1 1 2 国務大臣のべ2
ちゆうせいかい中正会 1 1 0
こうせいかい公正会 0 0 1
くんふ軍部 3 1 0
かんりよう官僚 0 0 0 内閣書記官長
むしよそく無所属 1 2 0 法制局長官
けついん欠員 0 0 1
9 9 9 国務大臣のべ10
内閣改造後(改造前からの事務引継ぎは除く)
出身 国務大臣 参政官 副参政官 その他
りつけんとうしかい立憲同志会 3 4 5
むしよそくたん無所属団 1 0 2 国務大臣のべ2
ちゆうせいかい中正会 1 2 0
こうせいかい公正会 0 0 1
くんふ軍部 2 1 0
かんりよう官僚 0 0 0 内閣書記官長
むしよそく無所属 2 1 0 法制局長官
けついん欠員 0 1 1
9 9 9 国務大臣のべ10

内閣の動き 編集

1914年3月22日、第1次山本内閣シーメンス事件を原因とする予算不成立の責任を取って、内閣総辞職する。24日、後継を巡って元老会議山縣有朋松方正義大山巌の三元老)が召集されたが、山縣筆頭元老がこだわる「立憲政友会と近くないもの」[注釈 3]という条件を満たす候補が得られず、会議は長期間に及んだ。元老会議の奏請により徳川家達貴族院議長、次いで清浦奎吾元内相に大命降下するが、徳川・清浦両名はいずれもこれを拝辞した(鰻香内閣[12]

その後、療養中であった井上馨元老が加わって協議の結果、政界引退して久しかった大隈重信元首相が候補となり[注釈 4]、井上元老が直々に大隈を説得して、承諾を取り付けた。大隈は、かつて自身が率いた憲政本党の議員が所属する立憲同志会(第二党)・中正会公友倶楽部(大隈の首相就任を契機として発足)を議会与党とし、同志会からは大隈と密接な三菱財閥と血縁関係にある加藤高明総裁が外務大臣(副総理格)として補佐した[13]

主な政策

藩閥と同志会が、政友会への反感から手を結ぶことによって成立した大隈内閣であったが、加藤外相が、それまで慣例として行われていた元老への外交機密文書の閲覧を差し止めるなど、政策(特に外交)決定から元老の関与を排する方針をとったため、元老と内閣との反目がつのりだす。山縣藩閥の大正政変以来の悲願であった増師が成立すると、藩閥側にとっても大隈内閣を存続させる動機がなくなるのみならず、山縣はかえって、総選挙で大躍進した同志会に対して警戒を募らせるようになる。

総選挙後、大浦内相が選挙干渉への関与を検察から追及され、7月29日、内相を辞任。翌日、大隈内閣は全閣僚の辞表を提出したが、大正天皇が大隈に好意を持っていたこと、元老も、天皇の即位礼を控えた時期に政変は望ましくないとして、加藤外相の辞任を条件に大隈内閣の存続を勧告した[16]。これを受けて、8月10日に内閣改造が行われたが、辞職したのは加藤外相、若槻蔵相、八代陸相の3名のみで、大半が留任であったため、「狂言辞職」などと呼ばれた。さらにこの後、大隈は後任に加藤を据えることを企図するようになったため、元老との反目が著しくなる[17][18]

翌1916年1月16日、大隈首相の暗殺未遂事件が発生。世論の内閣への反発は強まり、予算案の貴族院の通過が危ぶまれる状況になる。山縣が、総辞職を条件に貴族院に手を回したことによって予算は成立したが、以降も大隈は、第四次日露協約の締結交渉などを理由に総辞職を引き延ばし、最終的に大隈が辞職したのは、10月4日であった。大隈はここでも加藤総裁を後継に推していたが、元老会議は無視して、山縣閥の後継である寺内正毅朝鮮総督を推挙。10月9日、寺内内閣が少数与党(政友会の好意的中立)のもと発足する[19]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b 農商務相から内相に転任人事。
  2. ^ 東京帝国大学法科大学教授兼任。
  3. ^ 元来、山縣は憲政最初期の建前である超然主義を厳密に標榜しており、1900年代の桂園時代以降、前山本内閣に至るまで内閣の存立に深く関与するようになった政友会、特に原敬総裁を本能的に嫌っていた。
  4. ^ 大隈は自由民権運動以来の非藩閥勢力の最古参で、1898年には同運動出身の政党人として初めて首相就任していた(第1次大隈内閣)。

出典 編集

参考文献 編集

  • 伊藤之雄『大隈重信(下)「巨人」が築いたもの』中央公論新社〈中公新書〉、2019年7月。ISBN 978-4-12-102551-7 
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 升味準之輔『日本政治史 2 藩閥支配、政党政治』東京大学出版会東京都文京区、1988年5月25日。ISBN 4-13-033042-X 

関連項目 編集

外部リンク 編集