光仁朝の宝亀10年(779年)4月、正六位上より従五位下に叙爵される[1]。桓武朝の天応元年(781年)12月の光仁天皇の崩御に際して、大伴家持・高倉福信・吉備泉・石川豊人・大神末足・紀犬養・文室高島・文室子老・多治比浜成とともに山作司の一人になった[2]。
延暦3年(784年)4月、百済王武鏡の後任の大膳亮に就任し、同4年(785年)10月、石川浄継の後任の讃岐介に任命された[3]。以後の経歴は不明である。
『続日本紀』による。
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