織田信長

織田 信長
Odanobunaga.jpg
紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵)[1]
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文3年5月12日1534年6月23日[2]
天文3年5月28日[3]など諸説あり。
死没 天正10年6月2日1582年6月21日
改名 吉法師(幼名)、信長
別名 通称:三郎、上総守、上総介、右大将、右府
渾名:第六天魔王[4]、大うつけ、赤鬼
神号 建勲
戒名 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士
天徳院殿龍厳雲公大居士[5]
墓所 本能寺大徳寺総見院妙心寺玉鳳院
阿弥陀寺
官位 従五位下弾正少忠正四位下・弾正大弼
従三位参議権大納言右近衛大将
正三位内大臣従二位右大臣正二位
従一位太政大臣、贈正一位
主君 織田信友斯波義銀足利義昭
氏族 織田氏
父母 父:織田信秀、母:土田御前
兄弟 信広信長信勝信包信治信時
信興秀孝秀成信照長益長利
お犬の方お市の方
正室:濃姫
側室:生駒吉乃お鍋の方原田直子
信忠信雄信孝
下記を参照。

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名三英傑の1人。

尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀嫡男[6]

室町幕府を滅ぼし、畿内を中心に強力な中央政権(織田政権)を確立。戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の1人。この政権は豊臣秀吉による豊臣政権徳川家康が開いた江戸幕府へと続いていった。

生涯

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。

少年期

天文3年(1534年)5月12日、尾張国戦国大名織田信秀嫡男として、那古野城[7](現在の名古屋市中区)(勝幡城説もある[8])で生誕。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名斯波氏被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。

天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという[9]

天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぐ[10]。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年(1554年)には、村木砦の戦いで今川勢を破っている。

家督争いから尾張統一・上洛

当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。

斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。

弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。

こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には森可成佐久間盛重佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。

道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは河尻秀隆とされている[11]

さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。

永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。

桶狭間の戦いから清洲同盟へ

桶狭間古戦場、伝説の地
(愛知県豊明市
織田信長 銅像
(愛知県清須市、清洲公園)

尾張国統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。

信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞敦盛』を舞った後[12]、昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却した(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に、信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。この織徳間の同盟は信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持された。

美濃攻略と天下布武

斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利(森部の戦い)。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年(1564年)には北近江国浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏とも戦っている。

永禄9年(1564年から1565年)、竹中重治安藤守就岐阜城を占拠後、加治田城主の佐藤忠能を味方にして中濃の諸城を手に入れ(中濃攻略戦)、さらに西美濃三人衆稲葉良通氏家直元安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[13]

同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており[14]、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11月9日、正親町天皇は信長を「古今無双の名将」を褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、[15]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみであった[16]

上洛と将軍擁立

中央幕府の情勢

中央では、永禄8年(1565年)、かねてを中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆三好長逸三好政康岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。

久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。

武田氏との外交

美濃国において領国を接する甲斐国武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。

足利義昭上洛の警護

永禄11年(1568年)9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[17]

信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。

永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた[18]。 もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。

1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長はに2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。

伊勢侵攻と北畠家簒奪

同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野家当主とした。そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、天正4年(1576年)に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。

第一次信長包囲網

1570年(元亀1年)の戦国大名勢力図

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。

3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した[19]

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。

同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。

9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主顕如の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ。

11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した[20]。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功[21]。窮地を脱した。

第二次信長包囲網

『織田信長 図像』
兵庫県氷上町 所蔵

元亀2年(1571年)、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。

一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国後北条氏越後国上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた[22]

元亀3年(1572年)、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。

7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継富田長繁毛屋猪介戸田与次郞らが信長に寝返った。

10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。

11月、武田氏の秋山虎繁(信友)が、東美濃の岩村城を攻める。当主の遠山景任は防戦したが(上村合戦)、運悪く病死してしまう。遠山景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗したが、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、結果、信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏してしまう。

また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀は討死した。

12月末、松永久秀が信長に降伏する。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した[23]

室町幕府滅亡と「天下」の継承

武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した[24]。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた[25]

天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し、長政の母・小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した(執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である)。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。

9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退途中にまたも一揆軍による奇襲を受け、林通政が討死した。

11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。

三位に任じられ公卿となる

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の桂田長俊一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。

3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された。このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した[26]

長島一向一揆の制圧

7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにした。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となる。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。他方、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は中江城屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。

翌天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万兵の大軍で出軍した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は破城となる。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。

長篠の戦い

信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。

3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどし[27]、武田軍に圧勝する[28]

6月27日、相国寺に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論の事を知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。

7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、の官位と姓を与えた。

越前侵攻

この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。

これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された[29][30]。越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。

右近衛大将就任および安土城築城

安土城天主信長の館(安土城復元天主) 滋賀県近江八幡市安土町

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に叙任される、また、11月7日にはさらに右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた(足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる)。同日、嫡子の信忠は秋田城介鎮守府将軍になるための前官)に、次男の信雄は左近衛中将に叙任している。

11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直割領)を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。

天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始する[31]。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。

第三次信長包囲網

天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。

信長は4月、明智光秀・荒木村重・塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した(天王寺砦の戦い)。

その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。

この頃、越後守護で関東管領の上杉輝虎(上杉謙信)と信長との関係は悪化し[32]、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。

織田右府

天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ[33]、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国手取川を越えて焼き討ちを行っている。

大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を討ち取った(信貴山城の戦い)。久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。

11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻[34]。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。

11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。

天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に位を上げている。

3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子上杉景勝上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。

織田方面軍団の編成

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「軍団」「方面軍」と呼称し[35]、または信長軍・信長機動隊ともいう[36]

尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた[36]。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。

上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。

中国侵攻

天正6年(1578年)3月、播磨国別所長治の謀反(三木合戦)が起こる、

4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。

7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津に所領を持つ中川清秀高山右近は村重にはつかなかった。

同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。

天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。

11月、信長は織田家の京屋敷・二条新御所を、皇太子である誠仁親王に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・邦慶親王猶子として、この邦慶親王も二条新御所に移っている[37]

この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた(ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は松平信康#信康自刃事件についてを参照)。また伊勢国の出城構築を伊賀国国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責した(第一次天正伊賀の乱)。

天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。

天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

京都御馬揃え~左大臣推任

天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった[38]。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。

3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。

しかし4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。

高野山包囲

同・天正9年(1581年)、高野山荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえる(高野聖は諜報活動を行っていたともいう)と共に、河内国大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。

5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。


武田征伐

長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から北条氏直飛騨国から金森長近木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃国松尾城主・小笠原信嶺江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。

信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した[39]。また駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。

三職推任

4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた(三職推任問題)。しかし信長は使者に対して何も返答しないままだった。

本能寺の変

『本能寺焼討之図』(楊斎延一画、明治時代、名古屋市所蔵)

信長は四国長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。

また北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている[40]

5月29日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが本城惣右衛門覚書からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自らを手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。享年49(満48歳没)。

光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来弥助がいた。彼は光秀に捕らえられたものの後に放免、消息不明となった。

平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、寺が城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。

年表

和暦 西暦[41] 日付[42] 内容 出典 年齢[43]
天文3年 1534年 5月12日 那古野城で誕生(勝幡城とも)。 1歳
天文4年 1535年 那古野城主となる。 2歳
天文15年 1546年 元服。三郎信長を名乗る。 13歳
天文18年 1549年 2月24日 濃姫と結婚。 16歳
上総介を自称する。
天文20年 1551年 父・信秀の死去により家督を相続。 18歳
天文23年 1554年 本拠を清洲城に移転。 21歳
弘治3年 1557年 11月2日 弟・信勝(信行)を暗殺。 24歳
永禄2年 1559年 2月2日 初上洛、将軍足利義輝に謁見。 26歳
永禄3年 1560年 5月19日 桶狭間の戦い今川義元を討つ。 27歳
永禄6年 1563年 本拠を小牧城に移転。 30歳
永禄9年 1566年 尾張守を自称する。 33歳
永禄10年 1567年 8月15日 本拠を岐阜城に移転。 34歳
永禄11年 1568年 10月18日 足利義昭を奉じて上洛し将軍とする。 35歳
10月28日 従五位下弾正少忠 系図纂要
元亀元年 1570年 3月14日 正四位下弾正大弼 系図纂要 37歳
1571年 12月13日 勅命により浅井氏朝倉氏六角氏と和睦。
元亀4年 1573年 7月26日 将軍義昭を追放、足利幕府滅ぶ。 40歳
天正2年 1574年 3月18日 従三位参議 公卿補任[44] 41歳
3月28日 勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。
天正3年 1575年 11月4日 権大納言 公卿補任 42歳
11月7日 兼右近衛大将 公卿補任
11月28日 織田家の家督を嫡男・信忠に譲る。
天正4年 1576年 本拠を安土城に移転。 43歳
11月13日 正三位 公卿補任
11月21日 内大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正5年 1577年 11月16日 従二位 公卿補任 44歳
11月20日 右大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正6年 1578年 1月6日 正二位 公卿補任 45歳
4月9日 右大臣・右近衛大将を辞す[45] 公卿補任
天正8年 1580年 3月5日 勅命により石山本願寺と和睦。 47歳
天正9年 1581年 2月28日 京都内裏東で京都御馬揃えを催す。 48歳
天正10年 1582年 6月2日 本能寺の変で自刃。 49歳
10月9日 従一位太政大臣を贈位贈官。 大徳寺文書
大正6年 1917年 11月17日 正一位を贈位。

人物

織田信長像 (神戸市立博物館蔵、重要文化財)

人柄

苛烈と云われる所業

交友関係

南蛮への関心

文化への関心

肖像画

イエズス会の画家ジョヴァンニ・ニッコロen)による信長の肖像画1583- 1590年頃作成)

政策

日本統一政策

江戸時代以降、講談などによって「戦国時代の大名はすべて天下統一を夢見ていた」という歴史観が流布されてきた。しかしこれは誤りで、実際に日本を統一しようと考えていた者は信長と同時代にはいなかったか、いたとしても今川義元や武田信玄などごく少数だったと考えられる(もとの日本の主である天皇・将軍や、信長以後の人物を除く)。

なお、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であるとされ、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に解釈されることが多い。従って信長が日本の統一を発想したのはこれを使い出した頃か、それより前であると考えられる。ちなみに中世後期において「天下」とは、現在の「日本、世界」といった意味のほかに、「畿内の領域」という意味もあった[68]

宗教政策

朝廷政策

信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人立花京子らが本能寺の変「朝廷黒幕説」を提示するなど論争が活発になっている[69]谷口克広は、各説を以下のように分類している[70]

以下、論点と双方の説について述べる[71]

正親町天皇の譲位問題

天正元年(1573年)12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受諾した。しかし、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。

天正9年京都御馬揃え

信長が天正9年(1581年)に行った京都御馬揃えについて、

信長と官職(三職推任問題)

信長は尾張時代には上総介を称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って官を得た父信秀とは対照的である。信長は、将軍義昭の追放後、天正2年に参議に任官、のち従二位右大臣に昇進。しかし天正6年に右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就かず散位のままであった。

天正10年(1582年)5月、武家伝奏勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が征夷大将軍太政大臣関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長の本心は不明である。

信長の官位奏請
信長の家臣のうちで正式に叙位任官された者はそれほど多くなく、修理亮(柴田勝家)や筑前守(羽柴秀吉)など従五位前後のものに留まった。また一族でも嫡子・信忠は従三位近衛中将まで昇ったが、その他の者の官位も高くはなかった。一方で、徳川家康佐竹義重といった同盟大名や家臣への官位奏請も行っている。

その他関連史料

商業政策

商工業者に楽市・楽座の朱印状を与え、不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させた(当時は寺社も関所を持って税金を取り立てており、これが仏教勢力との対立にもつながっていると思われる)。ただ、全ての座を無くさせたわけではない(そんな事をすれば当時の流通は麻痺してしまう)。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座が力を持っている都市では座を利用した。

人事政策

戦略

内政

実現されなかった計画・構想

信長が構想していた計画・予定が、関連諸史料から読み取ることができる。

中国・九州平定計画
天正10年(1582年)5月17日に羽柴秀吉の援軍要請に応じて明智光秀や池田恒興、高山重友、中川清秀ら畿内の諸大名に動員令を出し、中国の毛利氏、九州の大名も屈服させる予定でいた[77]
四国平定計画
三男の信孝を三好康長の養子にして四国に渡海させようとしていた[78]。5月7日付の信長の朱印状には、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えようとしていた。伊予国土佐国に関しては、信長は四国平定後に戦後処理として淡路まで赴き、その際に残り2カ国の仕置も決める予定であった[79]
大陸侵攻計画
信長は日本を統一した後、対外出兵を行なう構想を持っていた。フロイスによれば信長は「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え[80]」を持っていた。なお堀杏庵『朝鮮征伐記』では、豊臣秀吉が信長に中国・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。秀吉はのちに唐、天竺、南蛮を征服せんとして文禄・慶長の役を行う。
安土行幸計画
天正10年元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の御幸の間を見せている[81]。1月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている[82]。このため、天正10年かそれ以降に、天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。
その他

後世の評価

死後、約50年経過した頃(江戸時代前期)の評価としては、

などがある。

江戸時代においては小瀬甫庵の『信長記』などによって知られたが、「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、庶民の間での評価はそれほど高くなかった。加賀藩前田利長泉野菅原神社を造営し、ひそかに信長を神として祀っていた[85]

明治時代になって勤皇思想が強まると、信長は御料所回復等を行っていたために勤皇家として評価され、明治2年(1869年)に明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年)、天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が東京の自邸内と、藩内にある舞鶴山に織田信長を祀る社を建立した。信長には明治天皇から建勲神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治13年(1880年)には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。大正6年(1917年)には正一位を追贈された[86]

戦後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。またルイス・フロイスが記した『日本史』の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王と記した」[4]という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、1990年代には軍事・政治面で西洋に先駆けた発想が見られた事などが指摘され、そこから、信長がさらに存命すれば世界史的にも多大な影響があったのではないかという見方が生じ、その設定を利用したフィクション作品が数多く生まれている。 後の天下人である秀吉・家康が信長の臣下[87]であったことからその影響は計り知れず、日本史上、極めて重要な人物である。秀吉も家康も、後継者にそれぞれ織田の血を引く者を当てており、死後もその影響力は大きかったようである。

系譜

「織田は越前に在り。平氏の子孫、織田明神の神主となる」と江戸時代初期の史料には記されている[84]。これによると織田氏平氏で、元来神社の宮司をしていたことが窺われ、福井県丹生郡越前町織田にある劔神社の関係から古代豪族の忌部氏とも考えられる。

また織田氏藤原氏も自称し、越前に地盤を築いた後、守護大名斯波氏に従って尾張に派生した。朝倉氏とは当初からのライバル関係。祖父・信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。

先祖
兄弟


姉妹
息子


庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。


養女
猶子
一門衆
織田信定
織田信勝(織田信行)系
織田信張
織田信光
織田信康
他系


家臣

他に有力重臣として九鬼嘉隆細川藤孝荒木村重池田勝正松永久秀筒井順慶森長可毛利長秀西美濃三人衆などもいる。

墓所・霊廟・寺社

本能寺廟(本能寺 信長公廟)
安土城廟(安土城址 織田信長公本廟)
中京区廟所(京都市)
清洲越しで名古屋に移った34年後、総見寺跡に再建立された寺院。

脚注

  1. ^ 家臣余語正勝が天正11年6月2日1583年6月21日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。
  2. ^ ルイス・フロイス説「フロイス日本史」より
  3. ^ 寒川辰清説「近江国與地史略」より
  4. ^ a b 「日本耶蘇会年報」より、ルイス・フロイスが1573年4月20日(=天正元年3月19日)付けでイエズス会に送った書簡から。武田信玄が西上作戦にあたって信長へ送った書状に「天台座主沙門信玄」と記してあったため、信長は返書に「第六天魔王」と署名したというもの。この時期、信玄は比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主覚恕法親王を甲斐に保護していた。これらの自称について他の史料はない。また、信玄はこの書簡の後にほどなく没している。
  5. ^ 天正10年9月11日柴田勝家夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
  6. ^ 異母兄が2人いるとする説がある。この説は小和田哲男によるもので、『武功夜話』などに基づくことから信憑性が薄い。この異母兄とされるのが庶兄・信広と異母弟・信時(秀俊)であるが、信時は他史料や系譜では五男または六男とされているため、織田氏研究者の間で議論になっている。
  7. ^ 国史大辞典』 織田信長の項目 吉川弘文館。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。
  8. ^ 尾州古城志
  9. ^ 「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。
  10. ^ 信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。
  11. ^ 信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。
  12. ^ a b c 幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは謡曲の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。(詳細は敦盛 (幸若舞)を参照)
  13. ^ 出典:『信長公記
  14. ^ 林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁
  15. ^ 前者は綸旨、後者は女房奉書によって伝えられた。なお、天皇・朝廷のこうした動きは各地の大名に対して行われており、この時点では正親町天皇はさほど信長を特別視していたわけではなかったと思われる。藤井譲治「天皇と天下人」より
  16. ^ 藤井譲治「天皇と天下人」より
  17. ^ ただし、六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。
  18. ^ 信長公記によれば、当時、岐阜から京都までは3日はかかったという。
  19. ^ 藤井譲治「天皇と天下人」より
  20. ^ 林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁
  21. ^ 大久保忠教の記した『三河物語』によると、このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという。
  22. ^ 近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2009)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007)。
  23. ^ 元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、信玄は上洛を目指していたされてきたが、近年ではその実態や意図に疑問が呈されている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007年)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など
  24. ^ 室町幕府の滅亡により、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている(神田千里「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002)。
  25. ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている(『御湯殿上日記』)。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある(神田裕理「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年)。
  26. ^ これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているがこれを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に奥州からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。
  27. ^ 信長公記』による。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。
  28. ^ この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より偏諱を賜り信昌と改名している。
  29. ^ このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。
  30. ^ このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。
  31. ^ 「安土」という地名は信長が命名したとも(「細川家記」)、元々あった地名だとも言われる。
  32. ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
  33. ^ 本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった
  34. ^ 織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した(手取川の戦い)というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。
  35. ^ 無論当時にはそのような名称は無かった。
  36. ^ a b 藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁
  37. ^ 「多聞院日記」より。なお多聞院日記によると、信長が御所を進上した相手は誠仁親王ではなく、猶子の邦慶親王の方だったようである。(藤井譲治『天皇と天下人』より)
  38. ^ 「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …(中略)… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」(信長公記
  39. ^ 俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。
  40. ^ この時の献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される(江後迪子『信長のおもてなし』2007)
  41. ^ ユリウス暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
  42. ^ 宣明暦長暦(但し最下段のみグレゴリオ暦)。
  43. ^ 数え年
  44. ^ 但し『歴名土代』は従五位下・同日昇殿とする。
  45. ^ このとき織田家の家督・信忠は従三位左近衛中将。
  46. ^ q:時鳥#川柳
  47. ^ 完訳フロイス日本史2 32章(本来の第1部83章)
  48. ^ 完訳フロイス日本史2 34章(本来の第1部85章)
  49. ^ 完訳フロイス日本史2 36章(本来の第1部87章)
  50. ^ 完訳フロイス日本史3 58章(本来の第2部43章)
  51. ^ 信長公記・巻8
  52. ^ 信長公記・巻2
  53. ^ 『完訳フロイス日本史2』第38章(本来の第1部89章)
  54. ^ 『完訳フロイス日本史2』第42章(本来の第1部95章)
  55. ^ 信長公記 巻15 家康公 穴山梅雪、奈良境御見物の事
  56. ^ フロイス日本史より
  57. ^ 「御侘言申し、長島明け退き候」とあるだけで、許したとは書いていない(他の箇所の「侘言」に対しては許した旨が書いてある)。またそれ以前に、降伏する場合は「(信長に対して)忠節を尽くす」と書いてあり、この「侘言」が降伏に当たるかどうかも怪しい。
  58. ^ 安土城と竹生島の間は往復で約30里(約120km)の距離がある
  59. ^ 「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」(『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』第32章より)
  60. ^ 同年12月5日の羽柴秀吉書状
  61. ^ 信長公記より。
  62. ^ 『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。
  63. ^ 文化庁オンラインに画像と解説あり[1]
  64. ^ 山本英男 「大徳寺所蔵の狩野永徳筆織田信長像について ─修理で得られた知見を中心に─」、『京都国立博物館學叢』所収、2011年。なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
  65. ^ 藤本正行 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』口絵参照、洋泉社、2010年 ISBN 978-4-86248-638-7
  66. ^ 織田信長画像(天童市三宝寺蔵)
  67. ^ 比較資料:1 E0 m#脚注・出典
  68. ^ フロイス日本史など。
  69. ^ ただし、今谷は「朝廷黒幕説」については全面的に否定しており、桐野も「朝廷黒幕説」をのちに撤回している。
  70. ^ 出典:谷口克広 『検証本能寺の変』 138-139頁、ISBN 978-4642056328
  71. ^ 出典:谷口克広 『検証本能寺の変』 103-141頁。
  72. ^ 天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転(仙洞御所は通常は洛中に広範な敷地を要するために、周辺の公家の屋敷や寺院の移転を伴う)費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった。羽柴(豊臣)秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている。
  73. ^ (ルイス・フロイスの『日本史』)
  74. ^ 信長公記 首巻
  75. ^ 富加町史編集委員会 「第二代加治田城主斎藤新五」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、227頁。
  76. ^ *天正2年(1574年)末、信長は坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛を御奉行として、諸国に道を作るよう朱印状で命じた。道の広さは三間半に定め、険しい道をならし、石を取り除いた。また、道の左右に松と柳を植え、その土地の人々に水をやり、掃除をするよう命じた。陸だけでなく、川・入り江には舟橋を作らせた。工事は翌天正3年(1575年)の正月中に完成した。これと以前から行っていた諸関・諸役の免除とが合わさり、旅の障害が無くなったので、人々は牛馬を使い、安心して行き来し、民の生活は安定した。皆「ありがたい事である」と両手を挙げて感謝し、信長が東方朔西王母のように長寿で、須達(=スダッタ)のように裕福になるようにと望んだ。(信長公記・巻8)
    • 安土の町から都まで陸路十四里の間に、彼は五、六畳の幅を持った唯一の道路を造らせ、平坦で真っ直ぐにし、夏には陰を投ずるように両側には樹木を植え、ところどころにホウキを掛け、近隣の村から人々が常に来て道路を清掃するように定めた。また彼は全道のりに渡り、両側の樹木の下に清潔な砂と小石を配らせ、道路全体をして庭のような観を呈せしめた。一定の間隔を置いて休息できる家があって、旅人はそこで売っている豊富な食料品を飲食して元気を回復した。そして以前その諸国では、少なくとも道連れのない一人旅の場合には、日中でもあまり安全ではなかったのであるが、彼の時代には、人々はことに夏には常に夜間旅をした。彼らはその荷物をかたわらに置き、路傍で眠り込んでも、他の人々が自宅においてそうできたほど安全となった。彼は道中のこの秩序と設備をその統治下の多数の諸国において実施させた。(フロイス日本史)
    • (安土と京都の間にある比叡山の山岳を)全て手で切り通させ、以前には人々が苦労をし、馬も非常な困難を嘗めてようやく登り得たひどく険しい道をまったく平らにし、なんらの障害がないようにした。かくてそれは快適な道路、広大な通路となり、牛車も婦人の駕籠もなんらの困難なしに通行している。
    • 近江の湖が狭くなり、激流と急流を伴う瀬田というところに、四、五千クルザードを費やしたといわれる立派な木材の橋を架けさせた(=瀬田の唐橋)。それは四畳の幅で、百八十畳の長さがあり、形は極めて完全であった。彼はそのほとんど中央の片側に一軒の非常に快適な休憩所を自分のために作り、そこを通行するとき休息できるようにした。(信長の)この好意と民衆の賛意のため、一般の人々はますます彼に心を惹かれ、彼を主君に持つことを喜んだ。(同上)
    • また1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇Ⅰ 第34章』)。
      • このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇Ⅱ』第55章
  77. ^ 「今度間近に寄合ひ候事、天の与ふる所に候間、御動座なされ、中国の歴々討果し、九州まで一篇に仰付らるべきの旨上意「信長公記」巻15」
  78. ^ 「三七郎殿(=信孝)、阿州三好山城守(=三好康長)の養子として御渡海」と石山本願寺顕如の右筆・宇野主水の日記より。
  79. ^ 「其儀、淡州(淡路国)に至れり時に申し出すべき事」(信長公記)
  80. ^ ルイス・フロイス 日本史 第55章
  81. ^ 「信長公記」巻15
  82. ^ 晴豊公記
  83. ^ 豊鏡
  84. ^ a b 勢州軍記
  85. ^ 「信長像、10年ぶり確認 金沢・泉野菅原神社」北国新聞HP [2]
  86. ^ 同位階を贈られたのは現時点では信長が最後となっている
  87. ^ 家康は同盟者であるが、実質的には信長の方が勢力・立場的にも上であった
  88. ^ 本能寺の変で焼失後、場所を移して再建。
  89. ^ http://tutuji.com/tsurugi/index.htm

参考文献

関連事項

史料

行事、祭礼

関連作品

小説
漫画
映画
テレビドラマ
織田信長が主人公のテレビドラマ
織田信長が登場するテレビドラマ
ゲーム
歌謡曲

関連項目

外部リンク