羅振玉

1865-1940, 清末民初~満州国の考古学者、教育者

羅 振玉(ら しんぎょく)は、清末民初から満洲国にかけて活動した考古学者・教育者。式如叔蘊。号は雪堂

羅振玉
人物情報
生誕 (1866-08-08) 1866年8月8日
同治5年6月28日)
浙江省紹興府上虞県
死没 (1940-06-19) 1940年6月19日(73歳没)
康徳7年)
満洲国の旗 満洲国 旅順
学問
研究分野 考古学
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羅振玉
職業: 考古学者・教育者
各種表記
繁体字 羅振玉
簡体字 罗振玉
拼音 Luó Zhènyù
ラテン字 Lo Chen-yü
和名表記: ら しんぎょく
発音転記: ルオ・ヂェンユー
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1938年

甲骨学や敦煌学の開拓、档案の保存などの業績がある。内藤湖南ら日本人と交流し、晩年は満洲国の要職についた。

経歴 編集

原籍は浙江省紹興府上虞県。先祖の代に江蘇省淮安河下露家橋に移り住んでおり、羅振玉もこの地で1866年に生まれた。

1891年劉鶚と知り合い、劉鶚の持つ亀甲獣骨文字の拓本を目にする機会を得る。羅振玉はそのあとを継いで甲骨文字の研究に打ち込み、『殷虚書契考釈』を発表した。そのため王国維董作賓郭沫若とともに「甲骨四堂」と称される。

甲骨文字研究以外では敦煌学の分野にも大きな役割を果たしている。1909年敦煌文献を獲得したポール・ペリオと会い、まだ残されているものがあると知ると、敦煌から残りのものを北京に運ばせて、京師図書館に収蔵させた。

その他に上海に東文学社を設立し、日本語を翻訳できる人材を育成し、沈紘樊炳清王国維らを輩出した。

また、紫禁城に保存されていた明清時代の档案(行政文書)が古紙として処分されそうになっているのを知り、急いで古紙業者から買い戻し、貴重な歴史資料が失われるのを防いだ。

辛亥革命後、来日し京都で、内藤湖南など、京都帝国大学中国学者達と交流を持った。帰国後は溥儀の家庭教師を務めた。1932年大同元年)3月9日、満洲国が正式に成立すると、3月10日に参議府参議に任命された[1]。後に日満文化協会会長も務めている。

档案の保存という功績がある一方で、満洲国建国に関わったこともあり、現在の中国では人物的評価がわかれている。

脚注 編集

  1. ^ 「満洲政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』1932年(昭和7年)3月11日。

著作 編集

日本語文献 編集

  • 『羅振玉自伝 集蓼編その他』深澤一幸訳注、平凡社東洋文庫、2022年。他に記録三編
  • 編『甲骨文墨場必携 集殷虚文字楹帖彙編』内山知也訳注、木耳社、新版2004年

その他 編集

関連項目 編集