義淵

643-728, 奈良時代の法相宗の僧

義淵(ぎえん・ぎいん、皇極天皇2年(643年) - 神亀5年10月20日728年11月25日))は、奈良時代法相宗。『続日本紀[1]によると俗姓は市往氏であるが、『扶桑略記』では大和国高市郡の出身で俗姓を阿刀氏とする。

義淵
皇極天皇2年 - 神亀5年10月20日
643年 - 728年11月25日
木心乾漆義淵僧正坐像(奈良時代の作、岡寺所蔵、国宝
宗旨 法相宗
寺院 龍蓋寺(岡寺)など
弟子 玄昉行基隆尊良弁道慈道鏡など
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人物 編集

『扶桑略記』や『東大寺要録』では、父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに岡本宮で養育されたという。出家して元興寺に入り唯識・法相を修め、龍蓋寺(岡寺)、龍門寺などの5ヶ龍寺を創建した。文武天皇3年(699年)、学行褒賞で稲1万束を賜り、大宝3年(703年)に僧正に任じられた。元正聖武両天皇の下で内裏に供奉した。『続日本紀』には、先代からの行いを称され727年(神亀4年)に岡連のを賜り兄弟に仕えることを許された、とある。

『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄昉行基隆尊良弁などがおり、道慈道鏡なども義淵の門下であったという。

伝説的逸話として、醍醐寺本『諸寺縁起集』薬師寺縁起によれば、憤怒のあまり悪龍と変じた大津皇子を義淵と修円が調伏し、皇子のために龍峯寺を建立したとある。義淵の龍調伏伝説はに変じた人物が草壁皇子に変じたものなど異伝が多いが、龍門寺など龍の名を冠する寺の縁起譚として共有され、平安時代には説話として広く伝搬していた[2]

脚注 編集

  1. ^ 『続日本紀』神亀四年十二月条
  2. ^ 小林真由美『醍醐寺本諸寺縁起集注釈抄』法蔵館〈寺院縁起の古層:注釈と研究〉、2015年、182-185頁。