耶律剌葛(やりつ らかつ、生年不詳 - 917年)は、(契丹)の皇族。太祖耶律阿保機の弟にあたるが、たびたび兄に叛いた。は率懶。

経歴 編集

耶律撒剌的の次男として生まれた。太祖元年(907年)、兄の阿保機が皇帝に即位すると、剌葛はその下で惕隠となった。涅烈部を討って撃破した。太祖5年(911年)、弟の耶律迭剌耶律寅底石耶律安端らとともに阿保機に対する反乱を計画した。安端の妻の粘睦姑の密告で露見したが、阿保機は弟たちを処刑するに忍びず、弟たちとともに山に登って生け贄を捧げ、天地に誓って罪を許した。剌葛は迭剌部夷離菫に転じた。

太祖6年(912年)、平州を攻撃して陥落させた。帰還すると、迭剌・寅底石・安端らとともにまた阿保機に叛いた。太祖7年(913年)1月、弟たちとともに西山で阿保機の帰路を遮ろうとした。阿保機が西山を避けて赤水城にいたったので、剌葛らは阿保機に降伏して許された。3月、また兄にそむき、兵を率いて乙室菫淀に到着すると、天子の旗鼓をもって自立しようとした。皇太后が人を派遣してさとしたため、即位を取りやめた。弭姑乃と懐里が阿保機の軍がやってくると言ったため、剌葛の軍は混乱して北方に逃走した。神速を派遣して明王楼を焼かせた。4月、阿保機の軍の追撃を受け、柴河で大敗して潰走した。5月、楡河で捕らえられた。名を暴里と改名させられ、杖罰を受けて許された。

神冊2年(917年)、子の耶律賽保とともに阿保機にそむいて幽州に入った。幽州からさらに南に逃れようとして、人に殺された。

伝記資料 編集

  • 遼史』巻1 本紀第1
  • 『遼史』巻64 表第2