耿 継元(てき けいげん、太宗12年(1240年) - 至元31年9月10日1294年9月30日))は、13世紀後半にモンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。

元史』には立伝されていないが『畿輔通志』巻169古蹟略陵墓5所収の耿公先世墓碑にその事蹟が記され、『新元史』には耿公先世墓碑を元にした列伝が記されている。

概要 編集

耿継元の祖父である耿福興定2年(1218年)にモンゴル帝国に降った人物で、漢人世侯の一人として武仙との戦いで活躍したことなどで知られる[1]。耿福の息子耿孝祖の3男が耿継元で、幼いころから学問に親しみ、『春秋左伝』や『司馬氏通鑑』を好んでいたと伝えられる。

18歳の時にケシクテイ(宿衛)に入り、それから3年後に束鹿県尹の地位を承襲した。その後、固安州・錦州の判官、葛城・大同・河間三県尹、同知絳州事を歴任した。錦州に赴任中、盗賊が掠奪を行って民を苦しめていることを知ると、耿継元は自ら盗賊の巣窟を攻撃してその首魁を誅殺ししたため、盗賊の脅威から解放された民は耿継元を称えてその山を「耿公山」と呼ぶようになったという。またある時、煤炭を産出する山の利権を得ようとする達官がいることを知ると、耿継元がこれに反対してやめさせた。

至元31年9月10日(1294年9月30日)に耿継元は55歳にして亡くなり、その15日後に葬られた[2]

耿継元は高陽郡夫人に追封された葛氏と朱氏を娶っており、耿蔚・耿煥・耿蔽という3人の息子がいた[3]。この中で、耿煥は中書左丞という高官にまで至り、翰林待講学士の張起巖に『耿公先世墓碑』の撰文を依頼している。

脚注 編集

  1. ^ 池内 1980, p. 74.
  2. ^ 『畿輔通志』巻169古蹟略陵墓5耿公先世墓碑,「参政字舜臣、幼頴悟好学、博涉経史、尤好『春秋左伝』及『司馬氏通鑑』。年十八、以質子入宿衛。三年、襲束鹿県尹。官制行、遷尹行唐・固安・錦二州判官、葛城・大同・河間三県尹、同知絳州事、積階忠顕校尉。所至以廉直剛敏称。錦州二劇盗拠險聚衆、焼民盧舍、掠人妻子、刧取財物、無寧歳。参玫到官、率壮士抵巣穴掩捕、誅其渠魁、縦其脅従者、巨害滅除。民徳之、号其山曰耿公山。大同有達官得旨賜一山為獵所、山産煤炭、彼因欲錮其利、奪民窯洞。参政反覆陳説、卒帰之民。宋旧臣家鉉翁寓河間、暇日執弟子礼師問、聴其講説無倦。至元三十一年甲午九月十日卒、年五十五。後十五日葬先兆。累贈中奉大夫・河南江北等処行中書省参知政事・護軍、追封高陽郡公」
  3. ^ 『畿輔通志』巻169古蹟略陵墓5耿公先世墓碑,「娶葛氏、追封高陽郡夫人。継朱氏。三子。長子蔚、承父澤入官、以束鹿県尹致佳。中子左丞也……。季子蔽、行宣政院都事卒」

参考文献 編集

  • 池内功「モンゴルの金国経略と漢人世候の成立-1-」『創立三十周年記念論文集』四国学院大学編、1980年
  • 新元史』巻143列伝40耿福伝