腰越状

1185年に日本の腰越で源義経が兄・源頼朝に宛ててしたためた書状

腰越状(こしごえじょう)とは、源義経が兄の源頼朝に宛てて認めたとされる手紙。元暦2年5月24日1185年6月23日)、義経が頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを止められて腰越に留まっていたとき、満福寺で心情を綴ったものと伝えられる。この手紙は公文所別当大江広元宛てに書かれ、頼朝へ取り次いでもらったとされるものの、結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すこととなった。

歌川国芳『腰越状』

腰越状は明治時代初期まで、手習いの教科書として用いられた。

本文 編集

以下は『吾妻鏡』巻4からの現代訳。原文は和様漢文体。

「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。

そうはいうものの、亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が悲嘆を申し開いて下さるでしょうか。憐れんで下さるでしょうか。今更改まって申し上げるのも愚痴になりますが、義経は身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上である故左馬の頭殿(義朝)が御他界され、孤児となっての懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。これに勝る名誉はありません。そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。

我が国は神国であります。神様は非礼をお受けにはなりません。他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます。

元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経

進上因幡前司殿

研究 編集

様式や文言など、当時の普通の披露文などとは異なっていて、義経が書いた原文ではないとされる。しかし功を誇り頼朝の仕打ちを嘆き、肉親の情に訴えるさまは史料である『玉葉』などに残された義経の発言と一致するものがあり、当時の切々たる義経の心情をよく表したものと言える。

一方、研究では腰越状を掲載している『吾妻鏡』の記述に多くの疑問が指摘され、義経が本当に腰越で留め置かれたのかという事実関係[注 1]を含め、腰越状の真偽も問われている。腰越状の文面については、頼朝の怒りの原因とされる任官問題や自専にまったく触れておらず、義経の五位衛門尉任官は、受領より格下の地位に過ぎず、「当家の面目、希代の重職」などではありえないなど、偽作説、義経が書いた原文があったとしても、相当の虚飾が加えられているとの見方がされている。また頼朝の親族への冷酷さを強調する『吾妻鏡』幕府編纂者による捏造の可能性[注 2]も指摘されており、腰越状の史料的評価は分かれている。

腰越状を創作とした場合、頼朝との関係に関する記述も疑わしい点があり、以下の説がある。

元木泰雄は、一ノ谷合戦後に義経が無断で検非違使に任官したことが頼朝の怒りを招いたわけではなく、また壇ノ浦合戦後に義経が鎌倉に向かったときにすでに両者の関係が完全に破綻していたわけでもなく、義経が京に戻った後、平氏討滅の恩賞として伊予守に推挙されたにもかかわらず、検非違使にも留任して鎌倉への帰還を拒んだ時点で両者の仲は決定的に破綻したとしている。呉座勇一もこれを支持し[1]、頼朝による配下の武将に対する粛清はすべて鎌倉で行われていることから見て、義経の腰越到着時にすでに頼朝との関係が破綻していたのなら頼朝は義経を京に返さずただちに拘束したはずであり、謀反を起こす可能性がある者を放置するほど頼朝は甘くないとし、河内祥輔が唱える、後白河に打撃を与えるためにあえて義経を自由の身にし、京で支援を得させ反乱を起こさせるよう仕向けたとする説に関しては、義経の挙兵が失敗した結果をあらかじめ頼朝が予想していたと考えるもので、勝利者はすべてを見通し他者を操っていたと見る陰謀論の典型的な考え方として支持せず、平氏を滅亡に追い込んだ義経の武名はあなどりがたく、この時点で挙兵された場合、確実に鎮圧できる自信があったとは思われないとする[2]。両者の亀裂のきっかけとなったとされる検非違使任官についても、実際には無断任官だったのではなく頼朝の同意を得ていたことを指摘し[3][要ページ番号]、義経の祖父源為義でさえ就任できた検非違使を、義経が「源氏一門の名誉になると思った」と頼朝に弁解するのも不自然とする[4]。関係悪化は平氏に対する構想の違いからであり、頼朝は殲滅ではなく補給路を断った上での持久戦による降伏を考えており、安徳天皇を京に帰還させ三種の神器とともに後白河法皇に対する政治的取り引きに使う予定だったとする[5]

頼朝が平氏追討の恩賞として当時受領の最高峰だった伊予守を与えたのも、通常は検非違使と同時兼任できないことから暗に京から離れ鎌倉に帰還せよとの意思を伝えたものであり、結果的に検非違使と受領を同時に兼任できたのは、後白河法皇によるもので、義経を鎌倉から独立した独自の武力として活用しようとしたことに起因している[6]。義経が検非違使を兼任し、京に留まり続け頼朝による鎌倉召還を拒んだことで両者の仲は決定的に破綻したと推論している。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 延慶本『平家物語』では、両者は面会したが、頼朝が冷淡な態度を取ったため義経は失望したとの記事を持つものもある。
  2. ^ 頼朝の、親族へのこうした冷淡さを強調し、源氏将軍が三代で断絶した遠因を示唆しているとも言われる。

出典 編集

  1. ^ 呉座 2018, pp. 75–76.
  2. ^ 呉座 2018, p. 72.
  3. ^ 呉座 2018.
  4. ^ 呉座 2018, p. 73.
  5. ^ 呉座 2018, pp. 73–74.
  6. ^ 呉座 2018, p. 75.

参考文献 編集

関連項目 編集