花山院長定

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。花山院家定の三男。正二位・内大臣、右大将。花山院家10代当主。

花山院 長定(かざんのいん ながさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿右大臣花山院家定の三男。官位正二位内大臣右大将護法院と号す。花山院家10代当主。

 
花山院長定
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 文保2年(1318年
死没 不詳
改名 長定→静圓(法名)
別名 護法院
官位 正二位右大将内大臣
主君 後宇多上皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇
氏族 花山院家
父母 父:花山院家定、母:花山院長雅の娘
兄弟 良定経定花山院師賢室、長定、尊浄、尊兼、定伊、経雲、近衛経忠正室
兼定、定尊
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三男にして家を継ぐ 編集

兄2人が早世したために三男にして花山院家を継いだ。しかし長定自身も30代で辞官・出家しまい、子の兼定は若年にして家を継がねばならなくなる。

経歴 編集

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『師守記』、『園太暦』の記事に従って記述する。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 師守記貞和5年3月の記事に、十才未満で中将・少将に任ぜられた例として長定も挙げられている。同書には左中将に任ぜられた時、長定は正五位下侍従であったと記されている。
  2. ^ 公卿補任』によれば所労危急により菩提心が生じたためのようである。以後の動静は不詳だが急逝したわけではなく、『園太暦』文和4年(1355年)9月4日の条には既に入道していた長定が黒衣を着て深草金剛寿院に参じたとあるので、没年はこの年以降であろう。
  3. ^ 長定が辞した右大将は久我通相が任ぜられるまで約3年間空席状態が続いた。

参考文献 編集