荒木氏(あらきうじ)は、「荒木」・「荒城」をの名とする氏族。のち朝臣

荒木氏
氏姓 荒木 → 荒木朝臣
始祖 天児屋根命
種別 神別天神
本貫 大和国宇智郡荒木
著名な人物 荒木叙婆
荒木忍国
凡例 / Category:氏

概要 編集

延喜式』「神名帳」、大和国宇智郡条に見える、荒木神社の鎮座値(現在の奈良県五條市今井町)の地名による氏の名称とされている。弘仁5年(814年)成立の『新撰姓氏録』「摂津国神別」によると、「荒城朝臣」は、津島朝臣と同じで、「大中臣朝臣同祖、津速魂命三世孫天児屋根命之後也」とあり、『日本後紀延暦23年(804)正月には大荒城臣忍国遠江介に任じたとあり[1]、『類聚国史』巻第九十九、「叙位」によると弘仁8年(817年)12月に荒城朝臣広野に従五位下を授けたとあるため[2]9世紀初め頃と想定される。

荒木氏は、平城左京、および摂津国越前国出羽国に分布しており、越前には無姓のものもいたという。

一族には、天平7年(735年)8月14日『瑜伽師地論』跋語の荒城臣多都乎がいるが、著名なのは、は越前国坂井郡(現在の福井県福井市西部と坂井郡)の豪族である荒木臣で、同郡の擬主政に荒木臣叙婆の名がある[3]。この一族は『続日本紀』巻第三十二によると、養老5年(721年)以前には大荒木と称していており、神亀4年(727年)以後は大の文字をつけなくなった、という[4]。『続紀』巻第二十八によると、天平神護3年(767年)5月、荒木道麻呂とその子息の忍国西大寺墾田などを献上し、叙位された、とある[5]。忍国はその後、神護景雲2年(736年)8月、左兵庫助に任命され、宝亀4年(773年)に大荒木臣の氏姓に復し[4]遠江介主馬頭を歴任している。『続紀』巻第三十六、宝亀11年(780年)8月にも越前国の人、大荒木臣忍山の名が見えている[6]

類聚国史』には先述の弘仁8年(817年12月荒城朝臣広野がおり、弘仁9年3月10日近江国愛智郡大国郷墾田売券に、大国郷戸主大荒木臣浄川の名が現れている[7]貞観9年(867年)3月26日付「高子内親王家庄牒案」に名の記されている荒城長人も朝臣姓と推定される。

脚注 編集

  1. ^ 日本後紀』巻第十二、桓武天皇 延暦23年正月24日条
  2. ^ 『日本後紀』巻第二十六、嵯峨天皇 弘仁8年12月23日条
  3. ^ 大日本古文書』4巻 - 342頁
  4. ^ a b 『続日本紀』光仁天皇 宝亀4年8月8日条
  5. ^ 続日本紀称徳天皇 天平神護3年5月20日条
  6. ^ 『続日本紀』光仁天皇 宝亀11年8月14日条
  7. ^ 平安遺文』44号

参考文献 編集