葉 名琛(しょう めいちん、拼音: Yè Míngchēn1807年12月21日嘉慶12年11月23日) - 1859年4月9日咸豊9年3月7日))は、の官僚。字は崑臣

葉名琛

湖北省漢陽出身。1835年進士となり、1838年陝西省漢中の知府となり、その後山西雁平道、雲南按察使、湖南布政使、江寧布政使、広東布政使を歴任し、1847年に広東巡撫に昇進した。当時の清朝では朝野ともに排外的な雰囲気が高揚してきており、最強硬派であった葉名琛は重用され、1852年には両広総督に昇進した。またこの年には凌十八の蜂起を鎮圧している。1854年には陳開李文茂周春陳金釭らが率いる天地会の蜂起軍に広州を包囲されるが、これを撃退し、数万人を処刑した。1855年には両広総督に協弁大学士体仁閣大学士を兼ねた。

1856年9月10日、アロー号事件が発生するとイギリス領事ハリー・パークスが抗議したが、葉名琛は強硬な態度をとってイギリスと妥協しなかった[1]。これにより事態はアロー戦争へと発展していった。イギリス軍は10月1日に広州を陥落させたが、人数が少なかったためにすぐに撤退した。葉名琛は大勝利を収めたと朝廷に上奏し、広州市民に各国の商館と貿易会社を焼き討ちさせた。

1857年、パークスは大軍を要請し、9月にはイギリス・フランス連合軍が広東に到達した。11月14日、連合軍は広州を占領し、葉名琛は捕らえられ、香港のイギリス軍艦に連行された。当時の人々は葉名琛を六不総督、すなわち「戦わず・和さず・守らず・死なず・降らず・逃げず」こんな人物は古来官僚にはいなかったとそしった。

48日後、軍艦は香港を離れ、葉名琛はインドのカルカッタに幽閉された。葉名琛は自らを「海上の蘇武」と称し、絶食して、翌年の4月9日に餓死した。

脚注

編集
  1. ^ 実際には、事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限を数日過ぎており、アロー号にはイギリスの国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であった。しかし、基本的な事実関係の調査を全く行わず、この事実に気がつかなかった。

関連項目

編集
先代
徐広縉
広東巡撫
1847-1852
次代
柏貴
先代
徐広縉
両広総督
1852-1858
次代
黄宗漢