董 允(とう いん)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢の政治家。休昭。父は董和。孫は董宏(巴西太守[1]。『三国志』蜀書に独立した伝がある[2]

董允
成都武侯祠の董允塑像
蜀漢
輔国将軍・侍中・守尚書令
出生 生年不明
荊州南郡枝江県
死去 延熙9年(246年
拼音 Dǒng Yǔn
休昭
主君 劉備劉禅
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略歴 編集

章武元年(221年)、劉備が皇帝に即位して劉禅を皇太子に立てると、その側近(太子舎人、次いで太子洗馬)として抜擢された。建興元年(223年)、劉禅の即位後は黄門侍郎に任じられた。

建興5年(227年)、諸葛亮北伐に先立って上奏した出師表の中で、費禕郭攸之と共に董允の名を挙げ「政治の規範・利害を斟酌し、進み出て忠言を尽くすのは彼らの役目です。宮中の事柄は全て彼らにご相談ください」などと述べた。次いで諸葛亮は費禕を参軍にしたいと要請したため、代わりに董允が侍中虎賁中郎将に昇進し、近衛兵の指揮を任された。

費禕は北伐の随員となり、また郭攸之も大人しい性格であったため、諫言するのは専ら董允の役割となった。劉禅は常々、美人を選び後宮を満たしたいと望んでいたが、董允は「古代にあっては、天子の后妃の数は十二人に過ぎません[3]。今、宮女は既に揃っているので、増やすのは適当ではありません」と主張し、あくまで承知しなかった。このため、劉禅はさらに董允を憚るようになった。

建興13年(235年)、蔣琬益州刺史に任命されると費禕・董允にその地位を譲ろうとしたが、董允はこれを固辞した。

劉禅は成長するに従い、黄皓を寵愛するようになったが、董允から厳しく諌められている[4]。このため、董允存命中において黄皓は黄門丞の地位に留まり、悪事を働くことはできなかった。

延熙6年(243年)、輔国将軍を加官された。翌年、侍中・守尚書令に任命され、大将軍であった費禕の次官となった。

延熙9年(246年)に死去した。董允の没後、劉禅を諫め黄皓の専横を防ぐ人物は現れず、劉禅は亡くなった董允を日に日に疎ましく思うようになった。後に黄皓は政治を壟断して国を滅ぼすに至ったため、蜀の人々で董允を追慕しない者はいなかったという。

瀘州市江陽区に墓所がある(県級文物保護単位)。墓碑は既に失われ盛土のみが残っている。

人物 編集

 
蜀漢四英の像

蜀の人々は諸葛亮・費禕・蔣琬・董允を、「四英」または「四相」と呼んだ[5]

かつて父の董和は、董允と費禕のどちらが優れているか判断しかねていた。ある時、許靖の子の葬儀に董允と費禕が一緒に参列することになった。董和が粗末な馬車を用意したところ、董允は嫌な顔をしたが費禕は平然としていた。董和は「二人の優劣が今日になってようやく分かった」と言ったという[6]

費禕は尚書令になると、朝夕に政務を治め、その間に賓客に応接し、飲食しながら遊び戯れ、娯楽を尽くしながらも仕事を怠らなかった。その後、董允は費禕の後任の尚書令となり、費禕を真似ようとしたが、十日の間に政務が停滞してしまった。董允は「人間の能力というものは、これほどまでに差があるのか」と嘆いたという[7]

ある時、費禕や胡済との宴会に行こうとしたところ、年少で官位の低い董恢が董允の下を訪れた。董恢が恐縮して帰ろうとすると、董允は「せっかく参られた君を捨て置いて、単なる友人との宴会に赴くなど考えられようか」と言い、外出を中止した[8]

性質は君子を以って為し周公之徳があると評されたという[8]

参考文献 編集

  • 陳寿『三国志』「董允伝」

脚注 編集

  1. ^ 子の名は不詳。
  2. ^ 『三国志』では、父が伝を立てられている場合、子の事績は父の伝に付載されるのが通例だが、董允は父の董和とは別に伝が立てられている。注釈を付けた裴松之は、陳泰陳羣の子)や陸抗陸遜の子)を例にこの処置に疑問を呈しており、董允の事績が董和を凌駕するからであろうか、としている。
  3. ^ 『春秋説』では、「天子の妃は十二人、諸侯の妃は九人」と述べている。『三国志』「后妃伝」も参照。
  4. ^ 陳寿はこの董允の態度を、後任の侍中である陳祗と比較し「上に主君を匡正し、下に黄皓を咎めた」と評している。
  5. ^ 「董允伝」の注に引く『華陽国志
  6. ^ 『三国志』「費禕伝」
  7. ^ 『三国志』「費禕伝」の注に引く『費禕別伝』
  8. ^ a b 『華陽国志』