薬丸 兼雄(やくまる かねたか)は江戸時代中期の薩摩藩士示現流の達人として知られた薬丸兼慶の子。

 
薬丸 兼雄
時代 江戸時代中期
生誕 元禄6年(1693年
死没 宝暦4年(1754年
改名 :兼雄
別名 通称:新蔵
戒名 玄光院院山道居士
幕府 江戸幕府
薩摩藩
父母 父:薬丸兼慶
兄弟 兼雄、長右衛門
兼中
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父の地頭就任により父とともに家格代々小番[注 1]となる[注 2]。また、久保之英の「見聞秘記」に登場している。藩職は記録方添役を勤める。

経歴 編集

享保9年4月28日、弟の長右衛門とともに初お目見え。同年5月2日、部屋住みではあったが家格が小番となる。享保11年8月16日 新番を勤める[1]延享5年(1748年)には記録方添役に任じられた[注 3]寛延4年6月7日、病気のために職を辞す。宝暦元年(1751年)に隠居した父の後を相続する。

同4年、父に先立って病死した。

人物 編集

  • 延享年間、薬丸家に示現流の門人たちが集っていたところ、突然隣の家に落雷があった。その家はたちまち火事になり大騒動となり、門人たちも慌てふためいたが、薬丸家一同(兼慶、兼雄、兼中)は何事もなかったかのように談笑を続けていた。これをみた門人たちは薬丸一門の豪胆ぶりに感服した。
  • 父の薬丸兼慶より薬丸家家伝の示現流を修めるとともに、東郷実満にも入門し、東郷位照らとともに研鑽に励んだ。また兼雄は博学であり、特に兵学に優れていた。しかしながら、初お目見えは弟と同時に行ったが、この時32歳と比較的遅めであったこともあり、父のようには出世することがなく、50代でようやく藩職についた。病気で職を辞したが、藩の方からは全快したら、面談をもって召し仕う旨を伝えられていた[2]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 他藩の馬廻に相当。
  2. ^ 「三州御治世要覧」によると薩摩藩の家格は宝永年間に大体決まり、家格小番以下の家が一代で代々小番格に昇進するためには地頭や留守居就任が必要であった。このことや「薬丸文書」にわざわざ享保年間に小番になった記事があることから父兼慶が地頭就任し、兼雄が家格小番になるまでは薬丸家の家格は小番ではなく、代々新番だった可能性が高い。
  3. ^ ちなみにこの職は宝暦5年の「嶋津家分限帳」によると上から37番目の席次の職であり、細工奉行の5つ下の職であった。また、同職は6人扶持の職であった。記録奉行の助手の役割の職であり、記録方添役の仕事の一旦が「文化朋党実録」の中で秩父太郎が伊賀に改名する過程で登場する。別名は記録奉行が「大史」と言われるのに対し、「副史」と呼ばれる

出典 編集

  1. ^ 「薬丸文書」参照なお、この新番は家格の新番とは別で参勤交代の際の役職の方。
  2. ^ 「鹿児島市史Ⅲ」の『薬丸家文書』参照。

参考文献 編集

  • 鹿児島県史料集(34) 示現流関係資料、鹿児島県史料刊行会、平成6年
  • 「鹿児島市史III」