藤原 相如(ふじわら の すけゆき)は、平安時代中期の貴族歌人藤原北家右近衛中将藤原助信の子。官位正五位下出雲守

 
藤原相如
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 長徳元年5月29日995年6月29日
官位 正五位下出雲守
主君 円融天皇花山天皇一条天皇
藤原道兼
氏族 藤原北家
父母 父:藤原助信、母:藤原俊連の娘
兄弟 相如、兼盛、淑如、信慶
藤原安親の娘
親任、藤原頼政室、源兼澄
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経歴 編集

生年は不詳だが、祖父・藤原敦忠や父・助信の年齢などから、天暦年間半ば(950年頃)生まれと推定される[1][2]

天延2年(974年)に円融天皇六位蔵人に補任される。この頃、保子内親王に仕える女房であった大納言の君(藤原伊尹の娘)と交際していたことが窺われる[3]。その後、五位に叙せられて蔵人を退いたらしい[4]一条朝にて出雲守を務めた[5]のちは散位[6]位階は正五位下に至る[7]

藤原道兼家司として仕えその信頼も厚かったという[8]。道兼は長徳元年(995年)4月27日に関白宣下を受けるが、間もなく病気となり5月8日に相如邸にて死去する。その悲しみのあまり相如も病を得て、道兼の四十九日の法要に立ち会えない無念さを何度も言いながら、道兼が没して僅か3週間後の同月29日に卒去。

人物 編集

歌人として活動するが、生前は特に優れた歌人として認められた様子がなく[9]勅撰和歌集への入集(7首)も平安時代末に編纂された『詞花和歌集』以降となっている[10]。娘も歌人として名を残している。

家集に『相如集』があり、全65首のうち自身の手によるものと想定されるものが48首採録されている。歌合など公式な場における作品や屏風歌などはなく、主に後宮の女性たちとの贈答歌によって構成されている[1]

大中臣能宣清原元輔菅原輔昭などとの交流が見られる。また、父・助信との贈答歌や父を悼む歌も存在する。

官歴 編集

系譜 編集

尊卑分脈』による。

脚注 編集

  1. ^ a b 福井 1975, p. 5
  2. ^ 北村 1985, p. 44.
  3. ^ 『中務集』235-237。『相如集』52-53
  4. ^ 新勅撰和歌集』巻第17
  5. ^ 『大日本史国郡司表』
  6. ^ 『相如集』序
  7. ^ 尊卑分脈
  8. ^ a b c 栄花物語』見はてぬゆめ
  9. ^ 福井 1975, p. 4
  10. ^ 『勅撰作者部類』
  11. ^ 『大間成文抄』第一下、に天喜2年とあるが年号は誤りか
  12. ^ 『親信卿記』

参考文献 編集

  • 福井迪子「藤原相如考」第25巻、1975年2月、CRID 1050564287933604608 
  • 北村杏子「藤原相如伝粗描」『青山學院女子短期大學紀要』第39巻、青山學院女子短期大學、1985年11月、29-46頁、CRID 1390572174529310848doi:10.34321/712ISSN 0385-6801 
  • 宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年