藩王国

植民地時代のインドにおいて藩王の支配権が認められていた領国

藩王国(はんおうこく、英語: princely state, native state, Indian state)とは、イギリス植民地統治していた時代のインド(現在のインド・パキスタンバングラデシュ、およびミャンマーを含むインド帝国)において、イギリスの従属下で一定の支配権を認められていた藩王(prince)の領国のことである[1]。「土侯国」とも訳される。

1909年当時のイギリス領インド帝国。イギリスによる直接統治下に置かれた地域はピンク、藩王国、保護国は黄色で示されている。
植民地時代のインド英語版
British Indian Empire
イギリス領インド帝国全図
オランダ領インド 1605年-1825年
デンマーク領インド 1620年-1869年
フランス領インド 1668年-1954年

ポルトガル領インド
(1505年-1961年)
インド商務院 1434年-1833年
ポルトガル東インド会社 1628年-1633年
ゴア併合 1961年

イギリス領インド
(1612年-1947年)
イギリス東インド会社 1612年-1757年
東インド会社統治下のインド 1757年-1858年
イギリス領インド帝国 1858年-1947年
イギリス統治下のビルマ 1824年-1948年
藩王国 1721年-1949年
インド・パキスタン分離独立 1947年

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ネパール王国ブータン王国はそれぞれグルカ戦争ブータン戦争の結果イギリスの保護国とはなったものの、藩王国としては扱われていない。

歴史 編集

その起源は、18世紀初頭にムガル帝国の皇帝アウラングゼーブが死亡して帝国が分裂したのち、独立した州やその周囲にあった諸領邦のうちで、イギリス東インド会社と軍事保護条約を結び、同盟関係にあった諸国である。

その数は約600あり、広さはニザーム藩王国(ハイダラーバード藩王国)、ジャンムー・カシュミール藩王国のように20万平方キロメートルを超えるものから[2]、数平方キロメートル程度のものまで様々で、総面積は独立前のインド全体の約45%、人口は約24%を占めた。

藩王の称号はさまざまで、ヒンドゥー教徒の場合はマハーラージャ(大王)、ラージャ(王)、デーシュムク(郷主)、タークル(地主)など、ムスリム(イスラーム教徒)ならナワーブ(太守、知事)、ワーリー(支配者)などを称し、ハイダラーバード藩王はムガル帝国時代に由来するニザーム(統治者)を称した[3][4]。だが、イギリス政府からはいずれも「藩王」(prince:「諸侯」の意味)と呼ばれた。

藩王国はイギリスとの軍事保護条約により、防衛・外交権を除いた自治権を認められてはいたが、しばしばイギリスが派遣した政治顧問(駐在官)の内政干渉を受けた。

また、インド総督ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)による「失権の原理」(養子相続を認めない藩王国併合政策)の強行により、イギリス領に併合された藩王国も多かった[5][6]。だが、インド大反乱後は分割統治に利用できる傀儡勢力として一転して保護されるようになった。

そのため当時、藩王国にインド議会の法律は適用されず、藩王たちは自由に統治した。クリシュナ・ラージャ4世サヤージー・ラーオ・ガーイクワード3世のような名君の統治した極少数の藩王国では近代国家並みに発展したところもある。だが、大半は支配階級の贅沢に国家予算の大部分が使われる時代遅れの体制だった。

同様の支配体制は宗教・文化が異なるミャンマー(ビルマ)でも行なわれ、現在のカレン州カチン州シャン州など少数民族の居住地域に藩王国が建国された。

1947年8月15日インド・パキスタン分離独立の際、数国を除いてほとんどの藩王国はどちらかの国に併合された[7]。帰属を決めかねていた藩王国に関すると、ジュナーガド藩王国の場合はインドがパキスタンの内地になることを恐れ、1947年に強制併合され、翌1948年の住民投票でインドへの帰属が決められている (Indian integration of Junagadh。ムスリムの大藩王国であったニザーム藩王国はパキスタン寄りの立場を示したため、ポロ作戦でインドに強制併合されている。カシュミール地方に存在したジャンムー・カシュミール藩王国の帰属問題は、インド・パキスタンの間でカシュミール紛争になり、現在も係争中である。独立に際してインド政府が多くの藩王国を強制的に併合した理由に、19世紀のインド大反乱の際にほとんどが反乱を鎮圧したイギリス側についたことへの報復の意味合いが含まれているとされる。

ミャンマー(ビルマ)の藩王国は、同国の独立後も(同国の政治的混乱もあり)一定の支配力を保ち続けたが、1962年ネ・ウィンによる軍事クーデタービルマ式社会主義体制が樹立すると、政府軍の実力行使によって支配層から排除された。また、シャン州などの一部の藩王国は、旧ビルマ共産党などの新興の反政府勢力によって駆逐されたものもあった。

主な藩王国 編集

現・インド 編集

現・パキスタン 編集

現・ミャンマー(ビルマ) 編集

その他 編集

脚注 編集

  1. ^ Ramusack 2004, p. 87 Quote: "The British system of indirect rule over Indian states ... provided a model for the efficient use of scarce monetary and personnel resources that could be adopted to imperial acquisitions in Malaya and Africa. (p. 87)"
  2. ^ Markovits, Claude (2004). A history of modern India, 1480–1950. Anthem Press. pp. 386–409. https://books.google.co.jp/books?id=uzOmy2y0Zh4C&redir_esc=y&hl=ja 
  3. ^ Great Britain. Indian Statutory Commission; Viscount John Allsebrook Simon Simon (1930). Report of the Indian Statutory Commission .... H.M. Stationery Office. https://books.google.co.jp/books?id=KTEoAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 2012年6月9日閲覧。 
  4. ^ All India reporter. D.V. Chitaley. (1938). https://books.google.co.jp/books?id=KWI2AAAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja 2012年6月9日閲覧。 
  5. ^ ガードナー『イギリス東インド会社』、p.
  6. ^ メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.140
  7. ^ Vapal Pangunni Menon (1956) The Story of the Integration of the Indian States, Macmillan Co., pp. 17–19

参考文献 編集

  • ブライアン・ガードナー 著、浜本正夫 訳『イギリス東インド会社』リブロポート、1989年。 
  • バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ 著、河野肇 訳『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』創士社、2009年。 

関連作品 編集

  • 『マハラジャ歓楽と陰謀の日々―インド裏面史』  ディワン・ジャルマニ・ダス (著) 佐野 光昭 (訳)  荒地出版社

関連項目 編集

外部リンク 編集