山西省立師範学校を卒業後、日本に留学する。東京高等工業学校化学科を卒業した。
1916年(民国5年)帰国し、山西省立第一中学校長、省立山西大学予科学長を歴任する。その後、山西督軍閻錫山配下となり、山西省督軍署秘書、外交処主任、山西督弁駐京代表、晋綏司令駐京代表を歴任した。これにより、閻の「ブレーン・トラスト」の1人となり、閻の著作の多くが蘇体仁の手によるものと言われた[2]。1924年(民国13年)12月、北京政府臨時法制院参事となる。
1928年(民国17年)7月、蘇体仁は、国民政府外交部の河北省交渉員に任命される。翌年、河北省財政特派員となった。1930年(民国19年)、辞職して、いったん天津に隠居した。1932年(民国20年)5月、綏遠省財政庁庁長として復帰し、1934年(民国23年)12月まで務めた。
1938年(民国27年)6月、中華民国臨時政府が山西省公署を創設し、蘇体仁が山西省長に任命された。1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府でも山西省長をつとめ、華北政務委員会委員にも任命された。1943年(民国32年)1月、北京特別市市長代理に異動する。さらに翌月に、華北政務委員会常務委員兼教育総署督弁となった。11月、華北政務委員会工務総署督弁に就任(しばらくの間、教育総署督弁と兼務)。1945年(民国34年)2月、華北政務委員会総務庁庁長となった。
日本敗北後、蘇体仁は太原に戻る。山西革命同志会に加入して、太原綏靖参事となった。1949年(民国38年)1月に北平が中国人民解放軍に向けて開城されると、蘇は最初に綏遠、次いで蘭州へと逃れた。その後さらに香港、最後は台湾へ逃れている。
1979年(民国68年)8月20日、台湾にて死去。享年92[3]。
- ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』2763頁による。Who's Who in China 4th ed.,p.209は1889年とする。
- ^ 『最新支那要人伝』101頁。
- ^ 『山西通志 人物志』による。一方『民国人物大辞典 増訂版』2763頁によると、蘇は日中戦争後まもなく日本に亡命し、日本で死去したとしている。
参考文献
編集