袁 化中(えん かちゅう、1572年 - 1625年)は、明代官僚魏忠賢の迫害により惨死した東林六君子のひとり。は民諧、は熙宇。本貫武定州

生涯 編集

1607年万暦35年)、進士に及第した。内黄知県・涇陽知県を歴任し、善政で知られた。1620年泰昌元年)、御史に抜擢された。天啓帝が即位すると、化中は上疏して輔臣の方従哲を弾劾し、聞き入れられた。1621年天啓元年)2月、時事の憂うべき傾向8事を取り上げて上奏した。宮禁の弛み、言論の軽さ、法紀の変更、賄賂の横行、辺境の崩壊、職掌の喪失、宦官の隆盛、人心の離反の8事である。巡按宣府大同として出向したが、喪に服すため辞職し帰郷した。喪が明けると、河南道御史として復帰した。

1624年(天啓4年)、楊漣が魏忠賢の二十四大罪を弾劾する上疏をおこなうと、化中もまた魏忠賢の排斥を訴え、陳居恭・毛文龍崔呈秀を批判して、魏忠賢らの一党の恨みを買った。1625年(天啓5年)3月、化中は楊鎬熊廷弼から賄賂6000を受け取ったとの冤罪をかけられて逮捕された。許顕純に過酷な拷問を受けて、8月乙未に獄中で死去した。享年は54。崇禎初年、太僕寺卿の位を追贈された。南明福王政権のとき、忠愍と追諡された。

参考文献 編集

  • 明史』巻244 列伝第132