袁 彬(えん ひん、1401年 - 1477年)は、明代官僚は文質。本貫瑞州府新昌県

生涯 編集

1449年正統14年)、オイラトエセン・ハーンが侵攻してくると、袁彬は錦衣衛校尉として英宗の親征に扈従した。土木の変が起こり、エセンが英宗を拉致して北に去ると、英宗に随行した官僚たちはみな逃げ散ったが、袁彬と哈銘のみが侍従して、帝のそばを離れなかった。エセンが大同宣府を侵し、北京に迫ると、英宗は皇太后景泰帝に手紙を送ろうと、袁彬に代筆させた。エセンがその妹を英宗にとつがせようとすると、袁彬は英宗の北京帰還を条件として持ち出し、これを阻んだ。エセンが袁彬を縛り上げてその殺害を図ると、英宗が急遽駆けつけて袁彬を救った。

英宗が北京に帰還すると、袁彬は錦衣衛で百戸に試用された。1457年天順元年)1月、英宗が復辟すると、袁彬は錦衣衛指揮僉事に抜擢された。3月、都指揮僉事に進んだ。まもなく指揮同知に進んだ。12月、錦衣衛指揮使となった[1]1461年(天順5年)秋、曹欽の乱を鎮圧した功績により、都指揮僉事に進んだ。1463年(天順7年)、門達に逆らって南京錦衣衛に左遷され、閑職に追いやられた。1464年(天順8年)、英宗が死去し、門達が都勻に左遷されると、袁彬は原職に復帰して、錦衣衛の事務を管掌した。1466年成化2年)、都指揮同知に進んだ[2]1473年(成化9年)、母が死去したため、特別に祭葬を賜った[3]1477年(成化13年)、袁彬は前軍都督府都督僉事となった。在官のまま死去した。

著書に『北征事蹟』1巻[4]があった。

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻32
  2. ^ 『国榷』巻34
  3. ^ 『国榷』巻36
  4. ^ 明史』芸文志二

参考文献 編集

  • 『明史』巻167 列伝第55