西沢 吉治(にしざわ きちじ、1872年 - 1933年)は、日本実業家

鯖江藩の蔵役を務めた為治の二男として鯖江町(現福井県鯖江市)に生まれた。神戸で西沢商会を起こし、海外の鉱物採集に励んだ。

1905年香港台湾の間にある無人島(東沙島、プラタス島)がどこの国にも属さず誰の所有地でもないと知って、これを自分の島とすることに決め「西沢島」と命名、リン鉱石硫黄真珠海藻を採取するなど一大事業を展開した。南大東島を開拓した玉置半右衛門にならって、貨幣の発行、「西沢島憲章」10か条の制定、インフラストラクチャー整備などをおこなった。1907年8月12日内務省日本領台湾への編入を願い出たが、2年後にへの帰属がとりきめられた。

第一次世界大戦では、ドイツアンガウル島でのリン鉱石採掘を軍に命じられた。

著書に『裏面より見たる西伯利事情 : 附・革命露国の政情』(自家出版 1922年)、北上梅石著・西沢吉治編『猶太禍』(内外書房 1924年)がある。

二男は詩人で政治活動家の西沢隆二[1][2]

脚注 編集

参考文献 編集