西道諸王(せいどうしょおう)は、モンゴル帝国におけるチンギス・カンの諸子(ジョチチャガタイオゴデイコルゲン)を始祖とする、モンゴル高原西方に領地を持つ諸王家の総称である。史料上では西方諸王右翼諸王とも記される。

これに対し、チンギス・カンの諸弟(ジョチ・カサルカチウンテムゲ・オッチギンベルグテイ)を始祖とする、モンゴル高原東方に領地を持つ諸王家を東道諸王東方諸王左翼諸王とも呼称する[1]

東道諸王が基本的にカアン(ハーン)の勢力下に留まり続けたのに対し、中央アジア東欧に大規模な領土を得た西道諸王は半独立的な政権(ジョチ・ウルスチャガタイ・ウルスオゴデイ・ウルス)を形成した。モンゴル帝国の解体後も、その末裔はテュルク化・イスラーム化した土着の王朝を樹立していったため、東欧・中央アジア・西アジアの歴史に多大な影響を残した。

名称 編集

西道諸王はモンゴル帝国時代の史料上に様々な名称で登場し、漢文史料では「西方諸王」[2]、「西道諸王」[3][4]ペルシア語史料では「右手(右翼)の諸王 (پادشاهزادگان دست راست / Pādshāhzādgān-i dast-i rāst)」などと表現されている。

このうち「西道諸王」という名称には、後述するようにモンゴル高原と東方の諸地域と結ぶ交易路、いわゆる「シルクロード」を支配する諸王というニュアンスが込められていると推測されている[5]

また、東道諸王が後世「アバガ (abaγa/「叔父」の意)」と総称されたのに対して、西道諸王出身の有力者はしばしば「アカ(aqa/「兄」の意)」と称していたことが記録されている。

概要 編集

1206年、モンゴル帝国を建国したチンギス・カンは、統治下の遊牧民を千人隊(ミンガン)として再編成し、95の千人隊が創設された。このうち、12の千人隊と西方の遊牧地がチンギス・カンの諸子に与えられ、また、12の千人隊と東方の遊牧地がチンギス・カンの諸弟に与えられ、それぞれモンゴル帝国の右翼(西道諸王)と左翼(東道諸王)と位置づけられた。カアン自らが指揮する中軍(コルン・ウルス)と、西道諸王の指揮する右翼および東道諸王の指揮する左翼という三極構造がモンゴル帝国の基本形とされ、以後代々受け継がれた[6]

東道諸王への千人隊の配分には偏りがあったのとは正反対に、西道諸王には全て均等に4千人隊が割り振られており、各王家は同格と定められていた。反面、東道諸王が最大の規模を有するオッチギン王家を中心として常に政治的態度を一にしてきたのに対し、西道諸王はカアン位を巡って常に対立状態にあった[7]

また、西道諸王への領土の分配には、西方諸地域への通行路を開拓させるという明確な目的があった。長春真人(丘処機)が中央アジア遠征中のチンギス・カンに謁見するため、金朝領華北からサマルカンドまで旅行した際の行程を記した『長春真人西遊記』には以下のように記されている。

[長春真人一行は]中秋の日にアルタイ山(金山)東北に至り、しばらく駐留した後再び南行した。その山は高大・深谷で長い坂道があり、かつては車で行くことが出来なかった。三太子(オゴデイ)が軍を出し、始めてこの道を開拓したのである。……また5日、陰山の北に宿泊した……池に沿って南下すると、左右の峰は高く、松・樺は繁り、高さ100尺を越えるものが嶺から麓まで連なり、何万株あるか知りようもない。幾多の水流は峡谷を、奔騰して湾曲し、60〜70里を流れる。二太子(チャガタイ)が西征に扈従した時、始めて石を穿って道を修理し、木を切って48の橋を架けた。その橋は車を並べて通れるほどの広さであった。
中秋日、抵金山東北、少駐復南行。其山高大、深谷長阪、車不可行。三太子出軍、始闢其路。……又五日、宿陰山北……沿池正南下、左右峰巒峭抜、松樺陰森、高逾百尺、自巓及麓、何啻万株。衆流入峡、奔騰洶湧、曲折湾環、可六七十里。二太子扈従西征、始鑿石理道、刊木爲四十八橋、橋可並車。 — 長春真人、『長春真人西遊記』

ここでは、それまで通行できなかった道を第2太子チャガタイ・第3太子オゴデイが修復・拡張したこと、その道がモンゴル軍の中央アジア遠征に用いられたことが明記されており、また別の箇所では「三太子修金山、二太子修陰山」とも記される。

実際に、チンギス・カンの中央アジア遠征はジョチ、チャガタイ、オゴデイら西道諸王によって開拓されたルートを用いて侵攻が行われ、その侵攻ルートが西道諸王の新しい領土とされた。まず、チャガタイの開いたアルタイ山南部ルートはホラズム遠征に先立つカラ・キタイ征服に用いられ、いわゆる「天山南路」はチャガタイ家の封地となった。次に、ジョチはチンギス・カンの金朝遠征中に起こったメルキト部の残党・トゥマト部の叛乱を鎮圧するためにモンゴル高原からキプチャク草原に出る「草原の道」を進み、北方からシル川畔に侵攻した。ジョチ率いる別働隊はチンギス・カン率いる本隊がモンゴル高原に帰還した後もキプチャク草原に留まり、旧ホラズム領北方の草原地帯はジョチ・ウルスの領域となった。最後に、チンギス・カン率いる本隊は先述したようにオゴデイが開いたアルタイ山を抜けるルートを通って中央アジアを目指しており、このモンゴル軍本隊が通ったジュンガル盆地一帯がオゴデイ・ウルスの領域となった。

しかし、チンギス・カンの死後はカアン位を巡ってジョチ家とチャガタイ家・オゴデイ家の仲が悪化し、ジョチ家の後押しを受けて即位した第4代皇帝モンケはチャガタイ家・オゴデイ家に大弾圧を加えた。弱体化したチャガタイ家・オゴデイ家は帝位継承戦争を経てオゴデイ家のカイドゥの下に統一され、カイドゥ・ウルスを形成した。カイドゥ・ウルスはカイドゥの死後瞬く間に解体したが、その領域はドゥアの再興したチャガタイ・ウルス(ドゥア・ウルス)が引き継ぎ、結果として西方にはジョチ・ウルスとチャガタイ・ウルスが残ることになった。

ジョチ・ウルスとチャガタイ・ウルスからはモンゴル帝国の伝統を引き継ぐ多数の後継国家が東欧・中央アジアに誕生し、現地の歴史に多大な影響を残した。

西道諸王のウルス 編集

ジョチ王家 編集

チンギス・カンの長男のジョチを始祖とする王家で、初封地はアルタイ山脈北部からイルティシュ流域にあった[8]

チャガタイ王家 編集

チンギス・カンの次男のチャガタイを始祖とする王家で、初封地はアルタイ山脈南部にあった[9]

オゴデイ王家 編集

チンギス・カンの三男のオゴデイを始祖とする王家で、初封地はアルタイ山脈中部にあった[10]

脚注 編集

  1. ^ 白石2015、62-65頁
  2. ^ 元史』巻3憲宗本紀「元年辛亥夏六月、西方諸王別児哥・脱哈帖木児、東方諸王也古・脱忽・亦孫哥・按只帯・塔察児・別里古帯、西方諸大将班里赤等、東方諸大将也速不花等、復大会於闊帖兀阿闌之地、共推帝即皇帝位於斡難河」
  3. ^ 『元史』巻4世祖本紀1「中統元年春三月戊辰朔、車駕至開平。親王合丹・阿只吉率西道諸王、塔察児・也先哥・忽剌忽児・爪都率東道諸王、皆来会、与諸大臣勧進……」
  4. ^ 『元史』巻9世祖本紀6「秋七月戊子朔……癸卯、諸王昔里吉劫北平王於阿力麻里之地、械系右丞相安童、誘脅諸王以叛、使通好於海都。海都弗納、東道諸王亦弗従、遂率西道諸王至和林城北」
  5. ^ これに対し、東方の「セイブル・ロード(黒貂の道)」を支配する諸王というニュアンスが込められた名称が「東道諸王」であると見られている(白石2015、62-65頁)。
  6. ^ 杉山2004、40-57頁
  7. ^ 西道諸王と東道諸王はそれぞれ12の千人隊を与えられたが、西道諸王が4千人隊ずつ均等に分けられたのに対し、東道諸王はカサル家1千人隊、カチウン家3千人隊、オッチギン家8千人隊(名目上は5千人隊であったが、ホエルン名義で割り振られた3千人隊も合算されるため、事実上8千人隊)という偏った割り振りとなっている(杉山2004、38-40頁)。
  8. ^ 杉山2004,49頁
  9. ^ 杉山2004,50頁
  10. ^ 杉山2004,51頁

参考文献 編集

  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 白石典之『チンギス・カンとその時代』勉誠出版、2015年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年