角田 啓輔(つのだ けいすけ、1933年1月19日 - )は日本卓球選手。荻村伊智朗田中利明らと共に日本卓球界に黄金時代を築き、「史上最速の強打者」と言われた選手。

角田 啓輔
基本情報
ラテン文字 keisuke tunoda
生年月日 1933年1月19日
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮城県の旗宮城県
選手情報
段級位 8段
利き腕  右
グリップ ペンホルダー
ITTFサイト WTTプロフィール
経歴
学歴 宮城県古川高等学校
中央大学
指導 日本の旗 卓球日本代表強化委員
獲得メダル
日本の旗 日本
世界卓球選手権
1956 東京 団体
1956 東京 ダブルス
1957 ストックホルム 団体
1957 ストックホルム ダブルス
1957 ストックホルム 混合ダブルス
アジア競技大会
1958 東京 男子シングルス
1958 東京 混合ダブルス
1958 東京 男子団体
アジア卓球選手権
1952 シンガポール ダブルス
1952 シンガポール 団体
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経歴 編集

宮城県出身。宮城県古川高等学校卒業と同時に大学入学の費用を稼ぐため、東京・日暮里の卓球ラケットメーカー・アームストロングに就職。3年間の社会人生活を送る。アームストロングが建設した東京卓球会館の2階の6畳一間に住み込みで働き、仕事終了後は東京卓球会館で腕を磨いた。当時、東京卓球会館には荻村伊知郎、富田芳雄、大川とみなど、そうそうたる顔ぶれが練習にきており現在では「伝説の卓球場」と呼ばれている。

1952年、世界選手権六回優勝(バーグマン4回、リーチ2回)の記録保持者、英国のリチャード・バーグマンジョニー・リーチ選手が来日し日本各地で30数回の国際試合(日英対抗戦)をしバーグマンに日本人でただ一人勝利した[1]

原田力蔵アームストロング(株)会社社長が発明したスポンジラバーを佐藤博治と共に貼ってプレーした最初の選手でもある。

社会人を経て中央大学へ進学。大学在学中に卓球日本代表に選出され、第23回世界卓球選手権(日本・東京)及び第24回世界卓球選手権スウェーデンストックホルム)の2大会では、荻村伊智朗田中利明らと共に日本団体2連覇し「卓球日本」の名を高めた。この功績が讃えられ1956年度と1957年の2年連続で朝日スポーツ賞を受賞した[2]

全日本卓球選手権大会男子シングルスでは田中利明と1954年~1956年の3年連続決勝で対戦して三度敗れ、準優勝という記録を残している[3]

1958年に中央大学を卒業し[4]日立製作所へ入社してプレーを続けた後に指導者に転身、長谷川信彦深津尚子森沢幸子など三人の世界チャンピオンを育てあげ、日本卓球協会強化委員などを務める[5]

また1972年には日本卓球OB団長として中華人民共和国を訪問、周恩来国務院総理と会見するなど日中間のスポーツ交流にも尽くした[6]

現在は世界選手権出場、日本代表選手で構成される「名球会」会長、中央大学白門卓球会(OB会)名誉会長[7]第一警備保障顧問[5]などを務める。

卓球王国 伝説のプレイヤーたち第7回」で特集された[8]

主な戦績 編集

  • 世界卓球選手権団体優勝2回(1956年、1957年)

脚注 編集

  1. ^ History of U.S. Table Tennis Vol III アメリカ卓球協会 Tim Boggan 2003年
  2. ^ 朝日スポーツ賞 朝日新聞社
  3. ^ 全日本卓球選手権歴代優勝者 卓球王国Archives(Internet Archives)
  4. ^ OB/OG紹介 中央大学卓球部
  5. ^ a b 第一警備保障における心の曙 第一警備保障
  6. ^ 卓球がもたらした人との出会い (PDF) 中央大学卓球部 クラブニュース 2009年10月31日付
  7. ^ 中央大学卓球部OB会役員名簿 (PDF) 中央大学卓球部
  8. ^ “【info】『伝説のプレーヤーたち/第7回角田啓輔 Vol.2』を公開”. 卓球王国. (2018年8月25日). https://world-tt.com/ps_info/ps_report_detail.php?bn=000005&pg=HEAD&page=BACK&rpcdno=1213 2024年3月21日閲覧。 

外来リンク 編集