許 仕達(きょ したつ、1418年 - 没年不詳)は、明代官僚は延佐[1]本貫徽州府歙県

生涯 編集

1445年正統10年)、進士に及第した。1447年(正統12年)、江西道監察御史に抜擢された[2]1450年景泰元年)4月、災害がたびたび起こっていたことから、仕達は景泰帝に修省を求める上疏をおこなった。景泰帝はこれを聞き入れた。ほどなく仕達は御前での経学の講義を延長して、儒臣に経史を講論させるよう要請した。1451年(景泰2年)、仕達は福建巡按をつとめ、福建に駐屯する宦官の廖秀を弾劾した。景泰帝は廖秀を獄に下した。廖秀が反訴して仕達を告発したため、景泰帝は鎮守侍郎の薛希璉らに下して仕達を取り調べさせた。仕達がさらに薛希璉を貪婪放縦の罪で弾劾すると、景泰帝は曹凱と御史の王豪に命じて取り調べさせた。調査の結果が上奏されると、両人互いの主張に嘘の部分と真実の部分があった。福建の老人たち数千人が仕達の留任を求め、給事中の林聡がまた仕達のために弁護した。景泰帝は仕達に留任を命じ、薛希璉には仲たがいしないよう命じた。1453年(景泰4年)、仕達は風紀に厳しく、漳州府知府の馬嗣宗を捕らえて北京に護送した。大理寺が仕達の専断を弾劾したが、景泰帝は不問に付した。任期を満了すると、福建の老人たちが北京の宮殿を訪れて、仕達の留任を求めたが、景泰帝は許さなかった。ほどなく仕達は福建左参政となった。天順年間、山東貴州の左右の布政使を歴任した。仕達の晩年は知られていない。

脚注 編集

  1. ^ 趙田恩『江南通志』巻147
  2. ^ 談遷国榷』巻26

参考文献 編集

  • 明史』巻164 列伝第52