謝一夔(しゃ いつき、1425年 - 1487年)は、明代官僚は大韶[1]本貫南昌府新建県

生涯 編集

王得仁の子として生まれた。1460年天順4年)、首席で進士に及第し、状元とされた。翰林院修撰に任じられ、『英宗実録』の編纂に参与した[2]。左春坊左諭徳に進んだ。1471年成化7年)、彗星が観測され、成化帝が諫言を求めた。一夔は後宮を正し、大臣に親しみ、言論の道を開き、刑事裁判を慎重に審議し、無駄な出費を戒めるよう求める五事を上奏した。その言葉は懇切真摯すぎたため、成化帝に叱責された。1477年(成化13年)、学士となった[3]1480年(成化16年)、礼部右侍郎に転じた[4]1486年(成化22年)10月、工部尚書に進んだ[5]1487年(成化23年)5月19日、死去した。享年は63[6]。太子少保の位を追贈された。正徳年間、文荘とされた。著書に『古源文集』6巻があった[7]

脚注 編集

  1. ^ 『江西通志』巻68
  2. ^ 廖道南『殿閣詞林記』巻5
  3. ^ 談遷国榷』巻37
  4. ^ 『国榷』巻38
  5. ^ 明史』七卿年表一
  6. ^ 何喬新『椒邱文集』巻20
  7. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻19

参考文献 編集

  • 『明史』巻165 列伝第53
  • 工部尚書謝公墓志銘(徐紘『明名臣琬琰録』巻14所収)