趙 徳芳(ちょう とくほう、顕徳6年(959年)- 太平興国6年3月12日[1]981年4月18日))は、の太祖趙匡胤の第4子。太宗の即位後は興元尹に任じられた。

生涯 編集

宋史』の記載によれば、太祖崩御の際、宋皇后は内侍王継恩に徳芳を入宮させることを命じたが、王継恩は太祖の遺詔を握り潰して、晋王光義の元に参じた。そして晋王が即位し、後に太宗と称されることになった。皇子を差し置いて皇弟が即位するという異常事態に「千載不決の議」と称される皇位簒奪疑惑が発生した。

太平興国4年(979年)に男子趙惟憲をもうけたが、太平興国6年(981年)3月に23歳で病死し、その死も当時太宗との関連が噂された。諡号は康恵。中書令が追贈され、岐王に追封された。後に太師が加贈され、楚王に改封された。

子孫 編集

南宋代、その6世孫に孝宗、7世孫に光宗、8世孫に寧宗が出た。

話本と京劇における形象 編集

脚注 編集

  1. ^ 続資治通鑑長編』巻22, 太平興国六年三月己酉条による。