足尾銅山

栃木県日光市にあった銅山

足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山鉱山)。「足尾銅山跡」として国の史跡に指定されている。

足尾銅山
1895年の足尾銅山
所在地
足尾銅山の位置(栃木県内)
足尾銅山
足尾銅山
足尾銅山の位置(日本内)
足尾銅山
足尾銅山
所在地上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)
栃木県
日本
座標北緯36度38分0秒 東経139度26分23秒 / 北緯36.63333度 東経139.43972度 / 36.63333; 139.43972座標: 北緯36度38分0秒 東経139度26分23秒 / 北緯36.63333度 東経139.43972度 / 36.63333; 139.43972
生産
産出物
歴史
開山1610年
閉山1973年 (1973)
プロジェクト:地球科学Portal:地球科学
足尾製錬所跡(手前)と鉱山の備前楯山(奥)

明治期には亜砒酸も産出し、精錬の副産物として硫酸も生産していた。

概要 編集

足尾銅山は1550年天文19年)に発見と伝えられている。1610年慶長15年)、百姓2人が鉱床を発見し、江戸幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになった。足尾に幕府は鋳銭座を設け、銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われる発展を見せた。採掘された銅は日光東照宮江戸増上寺の部材などに使われた[1]ほか、当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していた。その後、一時は採掘量が極度に減少し、幕末から明治初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。明治4年(1871年)には民営化されたが、銅の産出量は年間150トンにまで落ち込んでいた。 足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、1877年明治10年)に古河市兵衛は足尾銅山の経営に着手、数年間は全く成果が出なかったが、1881年(明治14年)に待望の有望鉱脈を発見。その後、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見された。古河市兵衛の死後、1905年(明治38年)3月に会社としての古河鉱業の経営となった。当時の明治政府の富国強兵政策を背景に、銅山経営は久原財閥日立鉱山住友家別子銅山とともに急速な発展を遂げた。20世紀初頭には、日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した[1]

しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地の樹木が坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙が大気汚染を引き起こしていた。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れ下った流域の平地に流れ込み、水質土壌汚染をもたらし、広範囲な環境汚染公害)を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である。1891年明治24年)、田中正造による国会での発言で大きな政治問題となった。1890年代より、鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。

1973年昭和48年)2月27日をもって採鉱を停止し、銅山としての歴史を閉じた。江戸幕府や古河財閥により掘り進められた坑道は、総延長1,234キロメートルに達した[1]

閉山後も自社水力発電所と工業用水が山腹水であることから輸入鉱石による製錬事業は続けられたが、1989年平成元年)にJR足尾線貨物輸送が廃止されて以降は鉱石と副生成物の硫酸の輸送が困難になったことから製錬事業を事実上停止し、2008年(平成20年)時点では、製錬施設を利用しての産業廃棄物(廃酸、廃アルカリなど)リサイクル事業を行っているのみである[2]

それらとは別に、銅山の歴史を伝える施設「足尾銅山観光」が1980年、足尾町(現・日光市)により1980年(昭和55年)開業し、現在に至る。トロッコで坑道に入り見学することができる。近隣には古河足尾歴史館もあり、鉱毒事件を含めて学べる[1]

2012年(平成24年)、「足尾銅山・映像データベース研究会」が4年がかりで作成してきた「足尾銅山写真データベース」を6月15日に公開すると発表した。1883年(明治16年)から46年間に亘り現地を訪れ、当時の状況を記録していた小野崎一徳によって撮影された写真を中心に、銅山と人の営みを白黒写真で記録したもので、撮影時期・場所、説明などが付記されている。

また柴岡信一郎による『足尾銅山のさと―生きている近代産業遺産』は、足尾銅山の栄枯盛衰を記録したフォトルポルタージュで、日本一の銅産出量を誇り近代産業の発展に大きく貢献した足尾町の現状を記録すると共に、地域振興において近代産業遺産をどのように活用できるかを述べている。

公害 編集

周辺の山々の森林では、鉱毒(亜硫酸ガス)による直接的な被害のほか、坑木を調達するための伐採、人口が増えたことによる山火事の発生、生活に必要な薪炭確保のための伐採などが行われたため荒廃が深刻化し、一部は自然回復が不能なはげ山と化した。1892年(明治25年)11月に導入されたベッセマー精錬は、それまで1ケ月かかっていた工程を2日に短縮しその生産増強に伴い亜硫酸ガスによる煙害も増大し、自熔鉱が導入される1956年(昭和31年)になって幾分か鎮静化した。これら森林を復旧するために国や県は、21世紀に入ってもなお治山事業による復旧を続けている[3]

施設 編集

鉱山 編集

備前楯山と呼ばれる銅山が1つある。その他の足尾近隣の山からはは産出しなかった。

坑口 編集

本山坑(有木坑)、小滝坑、通洞坑の3つの坑口があった。本山坑から小滝坑はほぼ一直線に繋がっており、通洞坑はこの太い坑道に横から接続する形になっている。このため、3つの坑口を結ぶ坑道は、T字型になっている。小滝坑は1954年(昭和29年)閉鎖。最後まで使われていたのは本山坑と通洞坑であった。より正確には、本山坑と有木坑は微妙に場所が違い、これ以外に近くに本口坑があった。通常はこの3つの坑口がまとめて「本山坑」と呼ばれる。有木坑は当初梨木坑という名であったが、縁起担ぎで有木に変更された。また、簀子橋という名の坑口もあった。規模は小さく、通洞坑と同一視されることが多いが、名目上は独立していた。現在の簀子橋堆積場付近にあった。

選鉱場 編集

通洞地区に置かれた。最初期は使える鉱石かどうかを女工が目視で判別、選鉱したという。1918年(大正7年)には鉱石をボールミルで微細粉末にした浮遊選鉱法が用いられ、シックナーで捕集はするもの渡良瀬川は白濁した。

製錬所 編集

本山地区にあったものが最も大きく、小滝地区にも小規模なものが置かれていた時代がある。鉱石から銅が製錬された。1960年代以降は、製錬時に出る亜硫酸ガスを回収して硫酸を製造し、これも出荷していた[4]

浄水場 編集

1897年(明治30年)、鉱毒防止策として政府は足尾の銅山施設全てから出る水を一旦沈殿させることを命じた(第二回予防命令)。閉山後も浄水設備(沈殿池・乾泥池・濾過池、これに間藤〈本山〉のみ集砂池が加わる)の稼動は続けられ、間藤浄水場(本山)、中才浄水場(通洞)の2箇所が2007年(平成19年)時点も稼動中である。小滝にも浄水場はあったが、規模が小さかったため、中才に統合された[5]。足尾銅山の公式な排水口は、精錬工場排水口、精錬カラミ排水口、間藤浄水排水口、中才浄水排水口、簀子橋堆積場上澄水排水口の5か所であったが、精錬を廃止することによって、中才浄水場と簀子橋堆積場以外から処理水の排水はない。中才浄水場は平常時の坑内からの浸透水や降雨時の堆積場からの流出水を石灰によりアルカリ性にして金属を沈殿させ固液分離したのち中性に戻して渡良瀬川に放流している。坑内からの浸透水の流出が続く限り廃止することができないでいる。

堆積場 編集

鉱石くず(銅含有量の少ない鉱石、選鉱汚泥、カラミ)などを溜めている場所で、鉱滓ダムともいわれる。鉱山保安法に基づき公表されているものは足尾町内に14箇所(小滝堆積場は1990年(平成2年)6月堆積物を搬出したため減となり現在は13箇所)あり、その他、法律未満の堆積場や坑内からの捨石を置いた集積場等は中央グラウンドや旧社宅跡地をはじめとして各所にある。13の使用済み堆積場は金属鉱業等特別措置法により一応の緑化等の鉱害対策がなされたが、有越沢堆積場をはじめとする幾つかの堆積場は今後も維持管理と補植作業の継続が必要性とされている。なお簀子橋堆積場は中才浄水場から発生する汚泥の排出先として現在も使用され、沈殿後の上澄水を排出している。

社員住宅 編集

社宅は坑口付近に多くつくられ、ほとんどの鉱夫は徒歩で通勤した。小学校商店なども周辺につくられた。閉山後は無人となっており、現存しないものも多い。

神社 編集

本山坑向かいの山頂付近に「本山鉱山神社」が存在する。本殿と拝殿の2棟があるが、何れも放棄されている。このほか、通洞坑には別に神社があり、足尾銅山観光出口付近に拝殿がある。

鉄索 編集

足尾ではケーブルカー(索道)のことを鉄索と呼んだ。1890年(明治23年)にまず、細尾峠を越えて日光を結ぶ路線が作られた。最も大規模なものは、本山坑から銀山平を経て小滝坑に向かい、そこからさらに利根村根利に向かう路線である。物資や鉱石を運ぶため、足尾町内に大規模なものがいくつも作られたが、閉山後に全て撤去されている。登山家を乗せたという記述も残っており、鉱夫などの輸送にも使われたとみられる。

鉄道 編集

人や物資を運ぶために町内の道路に線路が敷かれた。初期は馬車鉄道で、後期にはほぼ同じ路線をガソリンカー[6]が走った[7]。初期には馬車鉄道であった路線が、後に鉄索や鉄道に切り替えられたところも多い。

年表 編集

江戸時代 編集

 
銅山奉行・岡上景能

戦前 編集

 
田中正造

戦後 編集

  • 1950年 三栗谷用水、鉱毒沈砂池を設置。総工費3,200万円のうち100万円を古河鉱業の寄付金で賄う。
  • 1953年 待矢場両堰土地改良区と和解成立。土地改良資金800万円を寄付する。
  • 1954年 小滝坑、廃止。
  • 1956年 自溶製錬設備が完成し、亜硫酸ガスの排出が減少。
  • 1958年 源五郎沢堆積場が決壊。待矢場両堰に鉱毒が流入。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立。
  • 1961年 亜鉛貿易自由化決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる。
  • 1966年 天狗沢堆積場が決壊。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会、古河鉱業に抗議。
  • 1968年 政府の水質審議会、渡良瀬川の銅濃度基準を0.06ppmで決定。
  • 1970年 桐生市水道局、渡良瀬川から基準値を超える砒素を検出。
  • 1971年 太田市毛里田地区の米からカドミウムが検出される。
  • 1972年 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)。
  • 1973年 足尾銅山閉山、製錬事業は継続される。

閉山後 編集

舞台となった作品 編集

※発表順

映画
小説
  • 坑夫 (1908年) - 夏目漱石の長編小説。作中では明らかにされていないものの、足尾銅山が舞台であるとされている。

脚注 編集

  1. ^ a b c d 【ぐるっと首都圏】足尾銅山観光(栃木県日光市)殖産興業、光と影を知る日本経済新聞』朝刊2019年9月6日(首都圏経済面)2019年9月27日閲覧
  2. ^ [1] 足尾製錬株式会社 平成19年度EA21活動報告(平成20年5月12日)
  3. ^ 足尾の治山”. 栃木県 県西環境森林事務所 (2011年1月28日). 2020年7月23日閲覧。
  4. ^ 東郷浩司「足尾製錬所の現況」『日本鉱業会誌』第84巻第963号、日本鉱業会、1968年、731-735頁、doi:10.2473/shigentosozai1953.84.963_731 
  5. ^ 足尾銅山の廃水処理対策の変遷に関する研究 -浄水施設を中心に- - 土木学会(2009年11月版)2018年2月14日閲覧
  6. ^ 気動車ではなく、ガソリン機関車客車を牽引する列車のことを足尾の人々は「ガソリンカー」と呼んだ。『足尾銅山馬車鉄道』「沿革」を参照。
  7. ^ 臼井茂信「私の思い出写真 2 フォード万歳」『鉄道ファン』(No.168 1975年4月号、P.86, 交友社)に1934年(昭和9年)当時のガソリン機関車(10号)と客車(25号)の写真が掲載されている。
  8. ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
  9. ^ http://gpnotebook.gunmablog.net/e295444.html
  10. ^ 第2部<1> 永遠に続く公害対策 「宿命」年4~5億円投入”. 『下野新聞』. 2015年12月11日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集