連合国軍占領下の日本
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連合国軍占領下の日本(れんごうこくぐんせんりょうかのにほん)は、第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた日本である、ただし政治的(主権・行政権)については日本政府が統治権を有す。
概要
日本政府は、1945年8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。翌8月15日、昭和天皇はラジオで終戦の詔書を日本国民に発表した(玉音放送)。1945年9月2日に、日本政府代表は戦艦ミズーリの船上で連合国との間で降伏文書に正式に調印した。この日本の降伏により、連合国の占領下に入った。
降伏文書の調印に先立ち、アメリカ主導で組織された連合国軍は、同年8月28日からイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどによるイギリス連邦による協力を受け、日本への進駐を開始した。連合国は日本本土に対して軍政を実施するとの情報があり、重光外務大臣は9月3日にマッカーサーに面会し、直接具申しこれを撤回させた[2][3]。一方西南諸島及び小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで軍政および信託統治の歴史を歩む。大陸や南方、北方の旧領土および占領地の日本軍はそれぞれ現地の連合国軍に降伏し、領土および占領地の行政権は剥奪された(日本本土除く)。
1951年9月8日、日本政府はサンフランシスコ講和条約(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年4月28日が終戦の日である。
統治
アメリカ大統領ハリー・トルーマンはダグラス・マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命した。日本では連合国軍最高司令官総司令部をGHQ(General Headquarters)と呼称する。日本に進駐した連合軍の大部分はアメリカ軍であったがイギリス連邦の諸国軍も進駐した。
最高機関として極東委員会を、最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、その傘下に置かれたGHQが全面的に業務を行う。
分割案
詳細は「日本の分割統治計画」を参照
第二次世界大戦中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京都区部は米中蘇英、近畿地方の大部分はアメリカと中華民国による共同統治になるなど)を計画していた。しかし、天皇を通して統治した方が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。日本は国家が消滅したわけではなく、主権の一部を制限された状態であった。
政策
「連合国軍最高司令官総司令部」も参照
憲法
「日本国憲法」も参照
1945年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始された。連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が加えられ、1946年11月3日に新憲法が公布。1947年5月3日に施行された。
- 象徴天皇制
- 連合国軍は皇室改革を指令し、天皇は憲法上における統治権力の地位を明示的に放棄し、日本国および日本国民統合の象徴となった。また皇室財産が国や自治体等に下賜ないしは特別税として国庫に収容されることになるにともない[4][5]、多くの皇族は皇籍離脱を余儀なくされた。しかし、大半の皇族は戦犯には問われず、日本の皇族にとっては温情のある処置であったとする意見もある。また人間宣言によって天皇が現人神であることは否定されたが、第二次世界大戦以前の日本では「天照大神が皇室の祖」と歴史教科書に記述されていた一方で、多くの日本人はこの人間宣言と象徴天皇制を平静に受容した。
- 戦後直後の1946年に毎日新聞が実施した世論調査では、象徴天皇制への支持が85%、反対が13%、不明2%となっており戦後直後でも国民の多くが皇室の存続を支持している[6]。
- 平和主義(戦争放棄)
- 憲法に「戦争放棄」を明記して、日本を軍事的脅威たらしめないこととした。日本は後の朝鮮戦争期に、同戦争に国連軍の1国として派兵していたアメリカの意向により戦力を保有することになるが、その解釈と体制を巡って現在もなお日本国内で論争が続いている。
政治
- 極東国際軍事裁判(東京裁判)
- 連合国は極東国際軍事裁判を通して、「戦争指導者」とされた人物を「処罰」した。併せて「日本が平和と人道に対する罪を犯した」と3年間にわたって宣伝し続けた。なお、敗者である日本が、勝者である連合国軍に裁かれた極東軍事裁判は、ドイツで行われたニュルンベルク裁判同様、右派や国粋主義勢力のみならず、国際法学者(ラダ・ビノード・パール)から「裁判の体を成していない」や「復讐目的の裁判」や「事後裁判だ」と批判される。一方左派からは「最高権力者の昭和天皇が裁かれないのはおかしい」という批判を受けている。
- 結党の自由と政治犯の釈放
- 治安維持法が廃止され、これにより「思想犯」として捕らわれていた徳田球一をはじめとする共産党員などが解放された。結党の自由も保障されたが、後に元「政治犯」の多くは日本共産党などの左翼政党を結成した(日本共産党はこの時再建された)。これに加え国内経済の疲弊による労働運動の激化、また1949年の中華人民共和国の成立や朝鮮半島情勢の悪化もあり、その後GHQは共産党員とその支持者を弾圧する方針に転じた(レッドパージ、逆コース)。これら左翼政党は右翼政党や英米に対し対立姿勢を強めていく。
- 財閥解体
- 「太平洋戦争遂行の経済的基盤」になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の資本家勢力の除去が目的とされる経済民主化政策である。これにより多くの新興企業が生まれたが、後に解体された財閥の一部は元の形に戻る。
- 農地改革
- 地主から土地を強制的に召し上げ、小作人に農地を分け与えた。これによって、資産家は没落した一方、多くの新興農家が生まれ、小作農であった彼らの経済基盤は大幅に向上された。ただし、農地が個人に分散されたため、画一的な大規模農業が不可能となり、日本の食料自給率低下の原因とされる。また土地を得た農民は右翼政権の強固な支持層となった上、農地の強制収用の過程で、これを違法に逃れるものも多かった。
- 学制改革
- 複線教育が廃止され、各都道府県に大学が創設される等、教育の一般化が行われた。
国号
明治期以来現在においても日本の国号は法定のものではなく、行政上での慣例に従い記述されているが、明治期から昭和初期まで大日本帝国を主たる国号とし、1935年(昭和10年)7月より外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一していたが、第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱に国名を「大日本帝國」のままにしていたところ、2月13日GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が「日本國」になり、これ以降慣例として大日本帝国の国号は使用されなくなり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられる。
国旗
日章旗は占領初期に掲揚が禁止された。これを受けて、商船旗としては国際信号旗のE旗の端を三角に切り落とした日本商船管理局(SCAJAP)の旗が代わりに使用された。
貿易
輸出製品には "Made in Occupied Japan"(占領下日本製の意)と表示することが義務付けられた。
文化・思想
- 言論の自由
- 1945年10月8日に、「自由の指令」を出し思想・言論規制法規の廃止を命令すると、翌日から朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始した[7]。GHQは言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書(SCAPIN-16)やプレスコード、ラジオコード(SCAPIN-43)等を発して民間検閲支隊などにより新聞雑誌などあらゆる出版物、放送や手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。連合国の批判、占領軍の政策や極東国際軍事裁判を批判したもの、軍国主義的とされるもの、戦前・戦中の日本を擁護するもの、日本の価値観を肯定するもの、検閲が行われていることへの言及などは発行禁止や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制。検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。なお、新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年10月をもって廃止された。プレスコードによる言論統制は依然として存在したが、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった[8]。
- 伝統文化の排斥
- 軍国主義思想の復活を防ぐという名目で剣道や歌舞伎、神道など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「民族主義的」とされるものについて活動停止や組織解散や教則書籍の焚書などを行った。これらの措置の大部分は日本文化に対する無知、無理解を元にした措置であり、一部は占領中に、また主権回復後におおむね旧に復している。文学作品に日本神話について記述したものは検閲により削除された[9]。
- 世論対策
- 占領軍として進駐していたアメリカ軍の兵士が、ガムやチョコレートを食糧難に喘ぐ少年たちに与える事により、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、親米感情の醸成を試みた。また同時期にアメリカ映画の上映やラジオにおける英語講座の開設など、メディアを使ったキャンペーンを展開した。
- その一方で占領軍兵士による強盗や強姦、殺人などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反米感情が起こることを防いだ他、占領軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための慰安所を各地につくった。後に、GIベビーと呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。
- 宗教の自由
- 第二次世界大戦まで禁止されていた新興宗教が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの宗教の開祖などの指導者も釈放された。神道指令により厳格な政教分離が指示された。この結果として文化財保護政策に空白が生じ、1949年に文化財保護法が制定されたが、保護対象の物の多くは、政教分離原則に抵触しかねないものばかりであった。
領土
- 外地など領土の剥奪
- ポツダム宣言には「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とされ、日本が統治していた地域のうち、外地(台湾・朝鮮)・租借地(関東州)・委任統治区域(南洋群島)を失った。
- 旧領土の放棄の時点はいつであるかについては降伏当初より論点であったが[10]、ポツダム宣言受諾は義務の発生であって領土権の喪失は(現実には台湾や朝鮮が軍事占領され別の国として取り扱われており、連合国の意向次第で流動的であるが)法律上の立場としては領土の帰属が確定する時点(即ち講和条約締結時点)と解釈されていた。結果としてサンフランシスコ講和条約、中華民国ないし中華人民共和国との平和条約により朝鮮・台湾・南樺太・千島列島の領土権を正式に放棄した(南樺太および千島についての帰属は未定)。
- 第二次世界大戦で日本軍が連合国軍(英、米、蘭、仏)を追い出し、その後釜に座る形で占領していた東南アジアの国々は、日本軍が敗れた後、宗主国でもある勝戦国(英、米、蘭、仏)が再度植民地とした。しかし、日本の教育を受けた者や、抗日の独立指導者が中心となって、各地で独立宣言が行われた。日本本土に引き上げず、現地に留まっていた残留日本兵が協力するケースもあった。宗主国の多くは植民地の独立を認めず、軍隊を送り込んできたため、独立戦争が勃発したが、これらの戦争にほぼ全ての植民地が勝利し、独立した。
マッカーサーへの手紙
占領期を通じて、日本国民から連合国軍への手紙は50万通に及んだ。手紙の内容は復員に関する要望・嘆願、天皇制や民主主義に関する意見、などであった。
- 書簡の一例
- 一九四六年三月三〇日 ○○行平 三重県志摩郡磯部村
- 拝啓 小生昨年以来度々低級な投書を致して御迷惑をお掛け申せし処此の度は却つておとがめも無く礼状を頂きまして誠に限りなき御同情に感謝致して居ります。つきましては最近日本政府の発表しました憲法改正草案は私の今後の生活に重大関係を有しますので参考のため意見を申上げて見たいと存じます。
- 天皇制の存続に就いて私は絶対反対では有りませんが日本政府の今日の計画のみでは甚だ危険と思つて居ります。何故かと申せば天皇は従来と同じく政治責任者或は官吏の忠誠心に対する確認の機関として依然日本天皇の特権が元首に於て遂行されるからであります。故に結局狂人でない限り時勢の波に乗つて政権を獲得すれば天皇も同じく時勢の動向に左右されて単純なる忠誠心に元首としての役割を制約されるからであります。(以下略)
年表
凡例
- 月日 日本に関係のある出来事、日本国内の出来事。
- 月日 直接日本には関係しない世界の出来事。
- 8月14日 日本がポツダム宣言受諾の旨を中立国を通じて通告し、勅語を発布する。
- 8月15日 国民に向けての玉音放送。支那派遣軍と南方軍がこれに抗議。連合国軍は攻撃停止。しかしアメリカ軍はこの日まで攻撃を続けていた。鈴木貫太郎内閣総辞職。
- 8月16日 日本政府、陸海軍に停戦を命じる(中国大陸では9月半ばまで中華民国軍と戦闘が続く)。ソビエト連邦軍がヤルタ協定に基づいて南樺太と満州へ侵攻を開始し、日本軍抗戦(停戦令出る)。
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8月17日 東久邇宮稔彦王臨時内閣成立。天皇、支那派遣軍と南方軍に停戦の勅旨。連合国軍の許可を得て皇族をサイゴン・シンガポール・南京・北京・新京に派遣。
- 8月17日 インドネシアがオランダから独立宣言(インドネシア独立戦争 - 1949年)。
- 8月18日 ソ連軍が千島列島へ侵略を開始。占守島で日本軍交戦(21日停戦令出る)。満州国消滅。
- 8月19日 関東軍とソ連極東軍が停戦交渉開始。フィリピンに停戦命令が届く。河辺虎四郎参謀次長と米サザランド参謀長による降伏手続打合せの会合がマニラで行われる。
- 8月26日 終戦連絡中央事務局設置。このころ、満州での戦闘が終わる。
- 8月28日 テンチ米陸軍大佐以下150名が横浜に初上陸し、横浜に連合国軍本部を設置。以後、全国で人員と物資の上陸相次ぎ、進駐兵力は最大で43万人となる。特殊慰安施設協会が設立される。
- 8月30日 マッカーサー・アメリカ陸軍元帥が神奈川県厚木飛行場に到着。車両で当初の予定地である葉山御用邸を変更し、長後街道、国道1号経由で横浜に入る。
- 9月2日 日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。第二次世界大戦が正式に終結。通称「三布告」発令。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。朝鮮の日本軍に対し、北緯38度を境に対米ソ降伏を命令。台湾島は中華民国、旧満州国と千島列島・南樺太はソビエト連邦、南洋諸島はアメリカがそれぞれ併合または信託統治へ。東南アジア占領地は旧宗主国により植民地へ。
- 9月3日 フィリピンの日本軍降伏。重光・マッカーサー会談により間接統治の方向性を確認。
- 9月5日 第88回帝国議会臨時会議を召集。ソ連軍が歯舞群島までを不当占領(後に北方領土問題となる)。瀬島龍三など関東軍首脳部がハバロフスクへ送られ、将兵57万人がシベリア抑留となる。
- 9月6日 帝国議会がマッカーサーに対し「天皇と日本政府の統治の権限は貴官の下に置かれる」と通達。
- 9月8日 連合国軍、東京に進駐する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。
- 9月10日 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令。連合国軍が検閲を始める。『在日朝鮮人連盟』中央準備会が設立される。
- 9月11日 マッカーサー、東條英機らA級戦犯容疑者39人の逮捕を命令(東條、自決に失敗)。
- 9月13日 大本営を廃止。
- 9月14日 GHQ、同盟通信社に業務停止命令。
- 9月15日 東京・日比谷の第一生命相互ビル(現、DNタワー21、第一・農中ビル)を接収。民間検閲支隊長、同盟通信社の海外放送禁止、100%の検閲実施を表明。
- 9月16日 連合国軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転。
- 9月17日 マッカーサー、東京の本部に入り、日本進駐が順調なことから「進駐兵力は20万人に削減できる」と声明(米国の許可無く発言し、トルーマン大統領が疑念を抱く)。
- 9月18日 GHQ、朝日新聞に対する二日間の発行停止を命令(SCAPIN-34)
- 9月19日 プレスコードが出される。
- 9月20日 緊急勅令『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件』公布、即日施行。
- 9月22日 放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令。米国政府、「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」発表。
- 9月27日 昭和天皇、マッカーサーを訪問(直立不動の天皇と楽な姿勢のマッカーサーの2人が並んだ写真が新聞に公開された)。日本の漁獲水域を指定、いわゆるマッカーサー・ライン(北緯45度東経145度から北緯45度30分東経145度、歯舞群島を避けて東経150度、北緯26度東経150度、北緯26度東経123度、北緯32度東経125度、対馬を経て北緯40度東経135度、北緯45度東経140度を結ぶ線内)。
- 9月29日 内務省による検閲制度の廃止を指示。
- 9月30日 進駐軍、「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」を通達。
- 10月1日 進駐軍、「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」を通達。朝鮮・台湾など旧植民地出身者が日本国籍から離脱。
- 10月4日 自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令。“絶対主義天皇制批判者への治安維持法適用と処罰”を明言した内務大臣山崎巌の罷免を要求。同日、マッカーサーは東久邇内閣の国務大臣である近衛文麿に憲法改正を示唆。
- 10月5日 東久邇宮内閣は内務大臣・山崎巌の罷免を不信任と受け総辞職。
- 10月8日 進駐軍、「自由の指令」(思想・言論規制法規の廃止、内務大臣らを罷免、特高の廃止、政治犯の釈放等)思想・言論規制法規の廃止[7]
- 10月9日 進駐軍が朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始[7]。
- 10月9日 幣原喜重郎内閣発足。
- 10月10日 徳田球一ら共産党員など政治犯10数名が釈放。人民大会がデモ行進と総司令部前で万歳。
- 10月11日 女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。
- 10月15日 治安維持法廃止。国内の日本軍、武装解除を完了。
- 10月20日 日本共産党が機関紙「赤旗」再刊。
- 10月31日 GHQ、軍国主義を唱える教員の追放および同盟通信社の解体を指令。
- 11月2日 日本社会党結党。GHQ、財閥資産の凍結および解体を指令。
- 11月6日 日本自由党結党(旧政友会系)。持株会社解体令(三井、三菱、住友、安田の四大財閥を解体するという政府案をGHQ/SCAPが承認、いわゆる「財閥解体指令」)。
- 11月16日 日本進歩党結党(旧民政党系)。
- 11月18日 皇族資産凍結の指令。
- 11月30日 陸軍省・海軍省を廃止。
- 12月1日 陸軍省改め第一復員省・海軍省改め第二復員省が発足。日本共産党が第4回党大会を開催。
- 12月6日 近衛文麿や木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令。
- 12月7日 いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)。マニラ軍事裁判において山下奉文大将の死刑判決。
- 12月8日 太平洋戰爭史を全国の新聞へ連載させる。
- 12月9日 農地改革を指示。GHQによる「眞相はかうだ」の放送が始る。
- 12月15日 神道指令を指示(国教分離など)。
- 12月16日 近衛文麿が服毒自殺。
- 12月18日 日本協同党結党。幣原内閣、衆議院を解散。
- 12月22日 昭和天皇が史上初の記者会見。
- 12月31日 「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(覚書)(SCAPIN-519)を発令。修身、国史、地理の授業は中止、教科書は蒐集される。
- 1月1日 天皇神格否定の勅諭。(「人間宣言」)
- 1月4日 軍人・戦犯および軍国主義者とみなした政治家・大学教授・企業経営者などの公職追放を指示。
- 1月25日 幣原首相、マッカーサーと会談。
- 2月1日 毎日新聞が政府の新憲法草案をスクープ。英連邦軍、日本への進駐を開始。
- 2月2日 ソ連が全樺太と全千島列島の領有を宣言。
- 2月3日 マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。
- 2月13日 ホイットニー局長、新憲法モデル文章を吉田茂らに見せる。
- 2月19日 昭和天皇が川崎市・横浜市の市民を訪問。以後、全国を訪問する。
- 2月20日 ソ連、樺太・千島の領有を宣言する。
- 2月25日 新旧円の交換開始。
- 2月26日 極東委員会発足。
- 3月5日 第一次アメリカ教育使節団来日。
- 3月6日 日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表。
- 3月22日 日本政府の行政区域を対馬、種子島、伊豆諸島までに限る(北緯30度以南の南西諸島と小笠原諸島を分離して米軍統治下に置く)。
- 4月5日 対日理事会発足。
- 4月10日 新選挙法に基づく衆議院議員総選挙。投票率73パーセント、自由党が第一党となるも過半数に届かず。加藤シヅエ・山口シヅエ・戸叶里子・松谷天光光・近藤鶴代ら、日本初の女性国会議員が39名当選。
- 4月17日 幣原内閣、新憲法草案を発表。
- 4月22日 幣原内閣総辞職。
- 4月29日 天皇誕生日にA級戦犯29名を起訴。
- 5月1日 11年ぶりのメーデー。およそ100万人が集まる。
- 5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
- 5月4日 鳩山自由党総裁が追放される。
- 5月19日 宮城(皇居)前で25万人が飯米獲得人民大会を開催(食糧メーデー、プラカード事件)。共産党・社会党がデモ隊をつれて吉田を訪問。デモ隊一部は皇居内に侵入。翌日、マッカーサー声明「暴民デモ許さず」。
- 5月22日 吉田茂内閣(自由党)成立。
- 6月 中国大陸で内戦が再燃(国共内戦、1949年まで)。
- 6月15日 第一復員省と第二復員省が統合して復員庁となる。
- 6月19日 国連原子力委員会でソ連代表が核技術の廃絶を提案。
- 6月20日 衆議院に新憲法草案を提出。
- 6月22日 日本の漁獲域を拡張(歯舞群島の東の東経150度から北緯45度東経165度、北緯24度東経165度、北緯24度東経123度を結ぶ線内)。
- 6月25日 衆議院本会議に憲法草案が上程。
- 7月1日 アメリカが旧南洋諸島ビキニ環礁で4基目の原子爆弾を実験爆発。
- 7月4日 フィリピンがアメリカから独立。
- 11月3日 日本国憲法公布。
- 12月18日 ワシントンの極東委員会、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)。
- 12月20日 在日朝鮮人により首相官邸が襲撃される(首相官邸デモ事件)
- 12月21日 南海地震が発生。紀伊半島沿岸と四国沿岸などを津波が襲い、1443名が死亡。
- 1月1日 吉田茂、労組運動者を「不逞の輩」と非難。
- 1月4日 GHQ、第二次公職の追放を指令。
- 1月11日 全官公庁労組共闘委員会(組合員260万)4万人が皇居前でデモ。委員長伊井弥四郎がゼネスト決行宣言。
- 1月18日 伊井、ゼネスト決行を2月1日と発表。
- 1月31日 マッカーサー、二・一ゼネスト中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)。共闘委員会解散。
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2月10日 イタリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが連合国と講和。各国が領土割譲と賠償を認める。
- 3月 トルーマン大統領、「共産主義との対決」を宣言し、米ソ対立が表面化。
- 3月17日 マッカーサー声明「日本進駐は速く終わらせ、対日講和を結んで総司令部を解消するべき。講和は1年以内が良い。」対して国務次官ディーン・アチソン「日本より欧州が先」。
- 3月31日 吉田内閣、衆議院を解散。教育基本法、学校教育法公布。
- 4月22日 第一回参議院議員選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。
- 4月25日 衆議院選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。当選者の半数弱が新人で、田中角栄、中曽根康弘、鈴木善幸らが初当選。
- 4月 独占禁止法公布。
- 5月 総司令部内に賠償局を設置。
- 5月 GHQ、日本政府に対し「帝国」の語の使用を禁じる。
- 5月2日 外国人登録令(朝鮮人、台湾人などの外地人は日本籍を取り消され外国人になる)。
- 5月3日 日本国憲法施行。
- 5月20日 第一回特別国会召集。吉田内閣総辞職。
- 5月24日 社会党書記長片山哲がマッカーサーを訪問し、片山がキリスト教徒であること喜ぶ声明。また片山に「日本は東洋のスイスとなるべきだ」と言い、「東洋のスイスたれ」が流行する。
- 6月1日 片山哲内閣(社会党・民主党・国協党連立)成立。
- 6月5日 「ヨーロッパ危機に対するアメリカの行動(マーシャル・プラン)」を発表。
- 7月 極東委員会、対日政策指導原則を発表。
- 7月 国連、南洋諸島をアメリカの信託統治とする。
- 7月11日 マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案。
- 7月12日 欧米16カ国のパリ会議開催(マーシャル・プラン受け入れ決定)
- 7月13日 マッカーサー声明「日本処理の基本的な方針である軍の撤廃と非武装化は完全に達成されており、向こう100年間、日本は近代戦を行うための再軍備はできないだろう」米本国の欧州重視に反発した模様。
- 7月22日 ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。
- 8月 ラジオにおける事前検閲が廃止され、事後検閲になる。[8]
- 9月 カスリーン台風の被害甚大。
- 10月26日 刑法を改正。
- 11月 雑誌における事前検閲が廃止され、事後検閲となる。[8]
- 12月22日 民法を改正。
- 12月31日 内務省を廃止。
逆コースが始まる。
- 1月6日 米陸軍長官ロイヤル、演説中「日本を反共の壁にする」と発言(反共・封じ込め政策開始)。
- 1月26日 帝国銀行椎名町支店で行員12名が殺害され、18万円(当時)が強奪される(帝銀事件)。
- 2月10日 片山内閣総辞職。
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2月25日 米陸軍長官ロイヤル、陸軍省作戦計画局に日本の再軍備計画について検討するよう指示。
- 同日 チェコスロバキアに共産党内閣が成立。
- 3月10日 芦田均内閣(民主党・社会党・国協党)成立。
- 4月 祝祭日のみ日章旗掲揚を許可。
- 4月6日 米国ドレーパー使節団、「日本再建四ヶ年計画」を発表。
- 4月8日 東宝が1200人の人員整理を発表。15日から労組が撮影所に篭城(東宝争議)。
- 4月27日 庭坂事件勃発。
- 4月28日 夏時間が導入される。
- 5月 海上保安庁を設置。
- 6月28日 福井地震が発生。3736名が死亡し、戦災から復興しかけた福井市は再度壊滅した。
- 7月 GHQ、新聞の事前検閲を廃止。事後検閲となる。[8]
- 7月31日 政令201号発令(公務員の団体交渉権・スト権を否定)。
- 8月15日 朝鮮半島北緯38度線以南に大韓民国成立(アメリカによって旧宗主国である日本は無視された)、独立式典。
- 8月19日 13日の東京地裁仮処分を受けて東宝争議に米軍介入(「来なかったのは軍艦だけ」とまで評された)。
- 9月9日 朝鮮半島北緯38度以北に朝鮮民主主義人民共和国成立。
- 10月7日 芦田内閣、昭和電工事件の影響で総辞職。
- 10月19日 第二次吉田茂内閣(民主自由党)成立。
- 11月12日 東京裁判が25人に有罪判決。うち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、広田弘毅、武藤章、松井石根が死刑。
- 11月30日 政令201を受け国家公務員法改正。公務員の団体行動権を否定(労働基本権#日本の公務員の労働基本権)。
- 12月7日 芦田元首相を贈収賄容疑で逮捕。
- 12月8日 民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)。
- 12月18日 GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換する)。
- 12月23日 吉田内閣、衆議院解散(馴れ合い解散)。同日、東条英機ら旧指導者7人に死刑執行。
- 12月24日 岸信介などのA級戦犯容疑者を釈放。
- 1月1日 GHQ、日章旗の自由掲揚を認める。
- 1月1日 年齢のとなえ方に関する法律施行、書類に用いる年齢が数え年から満年齢へ変わる。
- 1月23日 衆議院総選挙。民主自由党が大勝利、共産党躍進。池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男ら、高級官僚の大量政界進出。
- 2月16日 第3次吉田内閣(民主自由党)成立。
- 3月1日 GHQ/SCAP経済顧問ジョゼフ・ドッジ、超均衡予算、補助金全廃、復興金融金庫の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示(ドッジ・ライン)。
- 3月30日 名立機雷爆発事件の発生。
- 4月4日 北大西洋条約機構(NATO)発足。
- 4月23日 1ドル360円の単一為替レート設定、25日より実施。
- 5月9日 予讃線事件発生。
- 6月1日 電波三法が施行。民間へ電波が開放される。
- 国鉄三大ミステリー事件発生。(7月6日に下山事件(国鉄総裁変死)、同15日に三鷹事件(国鉄無人電車暴走)、8月17日に松川事件(国鉄列車脱線転覆)
- 9月15日 シャウプ税制使節団、税制の抜本的改編を発表(シャウプ勧告)
- 9月21日 日本の漁獲域を東へ拡張(北緯40度東経165度、北緯40度東経180度、北緯24度東経180度、北緯24度東経165度の線内)。
- 10月 新聞、ラジオにおける事後検閲が廃止される[8]。
- 11月1日 米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。
- 11月3日 湯川秀樹がノーベル物理学賞受賞。
- 1月 地方政治が進駐軍政から離れる。
- 2月14日 ソ連が中華人民共和国と同盟条約を締結し、条文で日本を仮想敵国と名指しする。
- この頃、日本との講和を推進する米国務省と、米軍の日本駐留を継続するために日本再独立に反対する米国防総省が対立。
- 4月25日 池田勇人蔵相が白洲次郎らと共に税法問題交渉のため渡米。ジョゼフ・ドッジと面談し、講和後の米軍駐留を日本から提案する旨を通達(池田ミッション)。
- 5月12日 日本の漁獲水域を南へ拡大(北緯24度東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度東経180度を結ぶ線内)。
- 6月6日 マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放。
- 6月16日 国家地方警察、全国のデモ・集会禁止を発令。
- 6月25日 朝鮮戦争勃発(1953年まで)。在日占領軍が韓国を支援するため出動し、日本が前線基地となる。
- 7月 小倉で朝鮮派遣を控えた黒人米兵達が完全武装で集団脱走。強姦や略奪を繰り返すが、全員が憲兵に逮捕され、戦線に送られた(ほぼ全員が戦死したという)。情報統制の結果、ほとんどの日本国民が事件を知らなかった(小倉黒人米兵集団脱走事件)。
- 7月8日 マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8000名増員)を求める書簡を送る。
- 7月24日 GHQ/SCAP、共産党幹部逮捕と新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)。共産党書記長徳田球一、中国へ亡命。
- 8月10日 警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる。
- 8月23日 警察予備隊第一陣7000名が入隊。
- 8月27日 第2次アメリカ教育使節団来日。
- 9月14日 トルーマン大統領、対日講和と安全保障条約交渉の開始を指令。
- 10月 海上保安庁が朝鮮半島に特別掃海隊を派遣(国民には秘匿)。
- 11月10日 NHK東京テレビジョン実験局、テレビの定期実験放送を開始。
- 11月24日 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。
- 1月 マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く。
- 4月11日 マッカーサー、朝鮮戦争で旧満州空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭される。
- 4月16日 マッカーサー、アメリカへ帰国。マシュー・リッジウェイ中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)。
- 4月24日 桜木町事故。死者106名。
- 9月1日 日本初の民間放送ラジオ局、中部日本放送と新日本放送(現毎日放送)開局。
- 9月8日 サンフランシスコで日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)を調印。続いて日米安全保障条約に調印。
- 12月24日 リビアがイタリアから独立。アフリカ植民地の連続独立始まる。
- 12月25日 ラジオ東京(現 TBSラジオ)が開局。
- 1月18日 韓国が一方的に海洋主権宣言を発表(李承晩ライン)。
- 1月23日 国会中継放送が始まる。
- 2月28日 日米行政協定締結。
- 4月9日 もく星号墜落事故。
- 4月25日 漁獲水域指定(マッカーサー・ライン)を廃止。
- 4月26日 海上保安庁に海上警備隊が置かれる。
- 4月28日 サンフランシスコ講和条約が発効、日本主権回復。GHQ/SCAPの進駐が終わる。占領軍のうちアメリカ軍は、講和成立と共に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(日米安全保障条約)に基づいて駐留継続(在日米軍へ衣替え)。
48ヶ国と講和し国交を回復する。なお、ブラジルやメキシコなど、連合国として対日宣戦したものの、日本と一度も戦っていない国も名を連ねている。
日本は北緯29度以南の南西諸島と小笠原諸島を残存主権を保持しつつもアメリカの信託統治に置くことを認め、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾、南洋群島を放棄した。
1953年に奄美群島、1968年に小笠原諸島、1972年に琉球諸島(沖縄返還)が日本に返還された。また、ソ連に不当占領された北方領土は放棄していないと主張している。
脚注
- ^ 日章旗は占領初期に掲揚が禁止された。詳細は#国旗の節を参照。
- ^ 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授
- ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、日本の無条件降伏が軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
- ^ 皇室財産の大部を占めたのは山林であり、これは農林省に下賜され国有化された。帝室博物館などの皇室財産は関連省庁に移管され、すべての皇族の財産は宮内省から各皇族に私的財産として返還され、伝世財産・伝世御陵(伝承された財産:山林・宮殿敷地・農地・建物敷地など)については1回かぎりの特別税を用いて国有化した。日本政府はGHQによる皇室財産の処分を懸念し、すでに1945年11月の時点から日本政府と一部の地方自治体に下賜し始めており、具体的には11月3日に箱根・桂・武庫の3離宮を地方自治体に、11月5日に那須金丸ケ原・富士山麓大野ケ原・岡崎郊外高師ケ原の土地や、42万7000石の木材を日本政府に下賜した。そのほか皇室の宝石類を海外に売却して国民のための食糧輸入に当てたい意向をもちその方途を模索していたが、すでに日銀や日本政府、交易営団などの貴金属はESSにより接収されていたため適わず、ESSからの報告をうけたマッカーサーは天皇や皇室による国民への人気取りにつながると懸念をみせたため実現しなかった。なお桂離宮については昭和22年に再び皇室財産とされている。またそのほかについては皇室財産の項も参照。
- ^ 「憲法制定過程におけるGSとESSの関係」金官正(横浜国際経済法学第16巻1号2007.9)[1]
- ^ 毎日新聞 1946年5月27日[出典無効]
- ^ a b c 詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日 国立国会図書館
- ^ a b c d e 中 正樹. “用語としての「客観報道」の成立”. 2009年10月13日閲覧。
- ^ 太宰治の7作にGHQ検閲の跡、削除指示も 米大に資料 朝日新聞 2009年8月2日
- ^ 帝国議会議事録 第89回 貴族院 昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会1号(昭和20年11月29日)発言者番号17以降
参考文献
- 江藤淳 『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』 文藝春秋、1989年 / 文春文庫、平成6年
- 吉田恒昭「連合軍占領下における日本の平和構築とインフラ整備の経験」[2]
- 秋尾沙戸子 『ワシントン・ハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』新潮社、2009年(平成21年)、ISBN 978-4104370023
関連項目
- 日本の連合軍占領期
- 外国の連合軍占領期
外部リンク
- 国会図書館・憲政資料室・日本占領期資料 発生機関別索引
- メリーランド大学図書館プランゲ文庫 - 教育図書目録(占領期に日本で出版された教育関係図書・パンフレット約1万点の書誌情報)
- 九州地区劇団占領期GHQ検閲台本(ダイザー・コレクション)早稲田大学
- 占領期図書館史プロジェクト(東京大学)
- 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る-
- Relations Between Allied Forces and the Population of Japan 関係連合軍と日本の人口の間に
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