連合国軍占領下の日本

連合国軍占領下の日本
1945年 - 1952年
日本の国旗 日本の国章
国旗[1] 国章に準じる紋章)
国歌: 君が代
日本の位置
公用語 日本語(事実上)
首都 東京
天皇
1926年 - 1989年 昭和天皇
内閣総理大臣
1945年 - 1945年 東久邇宮稔彦王
1948年 - 1954年 吉田茂
変遷
太平洋戦争大東亜戦争)終戦 1945年8月15日
降伏文書調印 1945年9月2日
サンフランシスコ講和条約調印 1951年9月8日
日本が主権を回復(サンフランシスコ講和条約発効) 1952年4月28日
通貨

連合国軍占領下の日本(れんごうこくぐんせんりょうかのにほん)は、第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた日本である、ただし政治的(主権・行政権)については日本政府が統治権を有す。

概要

日本政府は、1945年8月14日ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。翌8月15日昭和天皇はラジオで終戦の詔書を日本国民に発表した(玉音放送)。1945年9月2日に、日本政府代表は戦艦ミズーリの船上で連合国との間で降伏文書に正式に調印した。この日本の降伏により、連合国の占領下に入った。

降伏文書の調印に先立ち、アメリカ主導で組織された連合国軍は、同年8月28日からイギリスオーストラリアニュージーランドなどによるイギリス連邦による協力を受け、日本への進駐を開始した。連合国は日本本土に対して軍政を実施するとの情報があり、重光外務大臣は9月3日にマッカーサーに面会し、直接具申しこれを撤回させた[2][3]。一方西南諸島及び小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで軍政および信託統治の歴史を歩む。大陸や南方、北方の旧領土および占領地の日本軍はそれぞれ現地の連合国軍に降伏し、領土および占領地の行政権は剥奪された(日本本土除く)。

1951年9月8日、日本政府はサンフランシスコ講和条約(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年4月28日が終戦の日である。

統治

アメリカ大統領ハリー・トルーマンダグラス・マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命した。日本では連合国軍最高司令官総司令部GHQ(General Headquarters)と呼称する。日本に進駐した連合軍の大部分はアメリカ軍であったがイギリス連邦の諸国軍も進駐した。

最高機関として極東委員会を、最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、その傘下に置かれたGHQが全面的に業務を行う。

分割案

アメリカ国立公文書館の計画書による日本の分割統治計画

第二次世界大戦中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京都区部は米中蘇英、近畿地方の大部分はアメリカと中華民国による共同統治になるなど)を計画していた。しかし、天皇を通して統治した方が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。日本は国家が消滅したわけではなく、主権の一部を制限された状態であった。

政策

憲法

1945年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始された。連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が加えられ、1946年11月3日に新憲法が公布。1947年5月3日に施行された。

象徴天皇制
連合国軍は皇室改革を指令し、天皇は憲法上における統治権力の地位を明示的に放棄し、日本国および日本国民統合の象徴となった。また皇室財産が国や自治体等に下賜ないしは特別税として国庫に収容されることになるにともない[4][5]、多くの皇族皇籍離脱を余儀なくされた。しかし、大半の皇族は戦犯には問われず、日本の皇族にとっては温情のある処置であったとする意見もある。また人間宣言によって天皇が現人神であることは否定されたが、第二次世界大戦以前の日本では「天照大神が皇室の祖」と歴史教科書に記述されていた一方で、多くの日本人はこの人間宣言と象徴天皇制を平静に受容した。
戦後直後の1946年毎日新聞が実施した世論調査では、象徴天皇制への支持が85%、反対が13%、不明2%となっており戦後直後でも国民の多くが皇室の存続を支持している[6]
平和主義戦争放棄
憲法に「戦争放棄」を明記して、日本を軍事的脅威たらしめないこととした。日本は後の朝鮮戦争期に、同戦争に国連軍の1国として派兵していたアメリカの意向により戦力を保有することになるが、その解釈と体制を巡って現在もなお日本国内で論争が続いている。

政治

極東国際軍事裁判(東京裁判)
連合国は極東国際軍事裁判を通して、「戦争指導者」とされた人物を「処罰」した。併せて「日本が平和と人道に対する罪を犯した」と3年間にわたって宣伝し続けた。なお、敗者である日本が、勝者である連合国軍に裁かれた極東軍事裁判は、ドイツで行われたニュルンベルク裁判同様、右派国粋主義勢力のみならず、国際法学者(ラダ・ビノード・パール)から「裁判の体を成していない」や「復讐目的の裁判」や「事後裁判だ」と批判される。一方左派からは「最高権力者の昭和天皇が裁かれないのはおかしい」という批判を受けている。
結党の自由と政治犯の釈放
治安維持法が廃止され、これにより「思想犯」として捕らわれていた徳田球一をはじめとする共産党員などが解放された。結党の自由も保障されたが、後に元「政治犯」の多くは日本共産党などの左翼政党を結成した(日本共産党はこの時再建された)。これに加え国内経済の疲弊による労働運動の激化、また1949年の中華人民共和国の成立や朝鮮半島情勢の悪化もあり、その後GHQは共産党員とその支持者を弾圧する方針に転じた(レッドパージ逆コース)。これら左翼政党は右翼政党や英米に対し対立姿勢を強めていく。
財閥解体
「太平洋戦争遂行の経済的基盤」になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の資本家勢力の除去が目的とされる経済民主化政策である。これにより多くの新興企業が生まれたが、後に解体された財閥の一部は元の形に戻る。
農地改革
地主から土地を強制的に召し上げ、小作人に農地を分け与えた。これによって、資産家は没落した一方、多くの新興農家が生まれ、小作農であった彼らの経済基盤は大幅に向上された。ただし、農地が個人に分散されたため、画一的な大規模農業が不可能となり、日本の食料自給率低下の原因とされる。また土地を得た農民は右翼政権の強固な支持層となった上、農地の強制収用の過程で、これを違法に逃れるものも多かった。
学制改革
複線教育が廃止され、各都道府県に大学が創設される等、教育の一般化が行われた。

国号

明治期以来現在においても日本の国号は法定のものではなく、行政上での慣例に従い記述されているが、明治期から昭和初期まで大日本帝国を主たる国号とし、1935年(昭和10年)7月より外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一していたが、第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱に国名を「大日本帝國」のままにしていたところ、2月13日GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が「日本國」になり、これ以降慣例として大日本帝国の国号は使用されなくなり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられる。

国旗

日章旗の掲揚禁止を受けて用いられた日本商船管理局旗

日章旗は占領初期に掲揚が禁止された。これを受けて、商船旗としては国際信号旗のE旗の端を三角に切り落とした日本商船管理局(SCAJAP)の旗が代わりに使用された。

貿易

輸出製品には "Made in Occupied Japan"(占領下日本製の意)と表示することが義務付けられた。

文化・思想

言論の自由
1945年10月8日に、「自由の指令」を出し思想・言論規制法規の廃止を命令すると、翌日から朝日新聞毎日新聞讀賣報知日本産業経済東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始した[7]。GHQは言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書(SCAPIN-16)やプレスコードラジオコード(SCAPIN-43)等を発して民間検閲支隊などにより新聞雑誌などあらゆる出版物、放送や手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。連合国の批判、占領軍の政策や極東国際軍事裁判を批判したもの、軍国主義的とされるもの、戦前・戦中の日本を擁護するもの、日本の価値観を肯定するもの、検閲が行われていることへの言及などは発行禁止や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制。検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。なお、新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年10月をもって廃止された。プレスコードによる言論統制は依然として存在したが、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった[8]
伝統文化の排斥
軍国主義思想の復活を防ぐという名目で剣道や歌舞伎、神道など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「民族主義的」とされるものについて活動停止や組織解散や教則書籍の焚書などを行った。これらの措置の大部分は日本文化に対する無知、無理解を元にした措置であり、一部は占領中に、また主権回復後におおむね旧に復している。文学作品に日本神話について記述したものは検閲により削除された[9]
世論対策
占領軍として進駐していたアメリカ軍の兵士が、ガムチョコレートを食糧難に喘ぐ少年たちに与える事により、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、親米感情の醸成を試みた。また同時期にアメリカ映画の上映やラジオにおける英語講座の開設など、メディアを使ったキャンペーンを展開した。
その一方で占領軍兵士による強盗強姦殺人などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反米感情が起こることを防いだ他、占領軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための慰安所を各地につくった。後に、GIベビーと呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。
宗教の自由
第二次世界大戦まで禁止されていた新興宗教が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの宗教の開祖などの指導者も釈放された。神道指令により厳格な政教分離が指示された。この結果として文化財保護政策に空白が生じ、1949年に文化財保護法が制定されたが、保護対象の物の多くは、政教分離原則に抵触しかねないものばかりであった。

領土

外地など領土の剥奪
ポツダム宣言には「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とされ、日本が統治していた地域のうち、外地台湾朝鮮)・租借地関東州)・委任統治区域南洋群島)を失った。
また内地についても、南樺太千島列島が占領され、南西諸島小笠原諸島伊豆諸島についても施政権が停止された(後に施政権を回復)。
旧領土の放棄の時点はいつであるかについては降伏当初より論点であったが[10]、ポツダム宣言受諾は義務の発生であって領土権の喪失は(現実には台湾や朝鮮が軍事占領され別の国として取り扱われており、連合国の意向次第で流動的であるが)法律上の立場としては領土の帰属が確定する時点(即ち講和条約締結時点)と解釈されていた。結果としてサンフランシスコ講和条約中華民国ないし中華人民共和国との平和条約により朝鮮・台湾・南樺太・千島列島の領土権を正式に放棄した(南樺太および千島についての帰属は未定)。
第二次世界大戦で日本軍が連合国軍(英、米、蘭、仏)を追い出し、その後釜に座る形で占領していた東南アジアの国々は、日本軍が敗れた後、宗主国でもある勝戦国(英、米、蘭、仏)が再度植民地とした。しかし、日本の教育を受けた者や、抗日の独立指導者が中心となって、各地で独立宣言が行われた。日本本土に引き上げず、現地に留まっていた残留日本兵が協力するケースもあった。宗主国の多くは植民地の独立を認めず、軍隊を送り込んできたため、独立戦争が勃発したが、これらの戦争にほぼ全ての植民地が勝利し、独立した。

マッカーサーへの手紙

占領期を通じて、日本国民から連合国軍への手紙は50万通に及んだ。手紙の内容は復員に関する要望・嘆願、天皇制民主主義に関する意見、などであった。

書簡の一例
一九四六年三月三〇日 ○○行平 三重県志摩郡磯部村
拝啓 小生昨年以来度々低級な投書を致して御迷惑をお掛け申せし処此の度は却つておとがめも無く礼状を頂きまして誠に限りなき御同情に感謝致して居ります。つきましては最近日本政府の発表しました憲法改正草案は私の今後の生活に重大関係を有しますので参考のため意見を申上げて見たいと存じます。
天皇制の存続に就いて私は絶対反対では有りませんが日本政府の今日の計画のみでは甚だ危険と思つて居ります。何故かと申せば天皇は従来と同じく政治責任者或は官吏の忠誠心に対する確認の機関として依然日本天皇の特権が元首に於て遂行されるからであります。故に結局狂人でない限り時勢の波に乗つて政権を獲得すれば天皇も同じく時勢の動向に左右されて単純なる忠誠心に元首としての役割を制約されるからであります。(以下略)

年表

凡例

1945年
東京湾に停泊する戦艦ミズーリ上で降伏文書調印。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣、左後方に侍しているのは加瀬俊一
国際連合が発足。
海軍省が廃され第二復員省が発足。
1946年
1947年
1948年

逆コースが始まる。

1949年
1950年
1951年
マシュー・バンカー・リッジウェイ将軍
1952年

48ヶ国と講和し国交を回復する。なお、ブラジルメキシコなど、連合国として対日宣戦したものの、日本と一度も戦っていない国も名を連ねている。

日本は北緯29度以南の南西諸島小笠原諸島を残存主権を保持しつつもアメリカの信託統治に置くことを認め、南樺太千島列島朝鮮半島台湾南洋群島を放棄した。

1953年奄美群島1968年に小笠原諸島、1972年琉球諸島沖縄返還)が日本に返還された。また、ソ連に不当占領された北方領土は放棄していないと主張している。

脚注

  1. ^ 日章旗は占領初期に掲揚が禁止された。詳細は#国旗の節を参照。
  2. ^ 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授
  3. ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、日本の無条件降伏が軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
  4. ^ 皇室財産の大部を占めたのは山林であり、これは農林省に下賜され国有化された。帝室博物館などの皇室財産は関連省庁に移管され、すべての皇族の財産は宮内省から各皇族に私的財産として返還され、伝世財産・伝世御陵(伝承された財産:山林・宮殿敷地・農地・建物敷地など)については1回かぎりの特別税を用いて国有化した。日本政府はGHQによる皇室財産の処分を懸念し、すでに1945年11月の時点から日本政府と一部の地方自治体に下賜し始めており、具体的には11月3日に箱根・桂・武庫の3離宮を地方自治体に、11月5日に那須金丸ケ原・富士山麓大野ケ原・岡崎郊外高師ケ原の土地や、42万7000石の木材を日本政府に下賜した。そのほか皇室の宝石類を海外に売却して国民のための食糧輸入に当てたい意向をもちその方途を模索していたが、すでに日銀や日本政府、交易営団などの貴金属はESSにより接収されていたため適わず、ESSからの報告をうけたマッカーサーは天皇や皇室による国民への人気取りにつながると懸念をみせたため実現しなかった。なお桂離宮については昭和22年に再び皇室財産とされている。またそのほかについては皇室財産の項も参照。
  5. ^ 「憲法制定過程におけるGSとESSの関係」金官正(横浜国際経済法学第16巻1号2007.9)[1]
  6. ^ 毎日新聞 1946年5月27日[出典無効]
  7. ^ a b c 詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日 国立国会図書館
  8. ^ a b c d e 中 正樹. “用語としての「客観報道」の成立”. 2009年10月13日閲覧。
  9. ^ 太宰治の7作にGHQ検閲の跡、削除指示も 米大に資料 朝日新聞 2009年8月2日
  10. ^ 帝国議会議事録 第89回 貴族院 昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会1号(昭和20年11月29日)発言者番号17以降

参考文献

関連項目

日本の連合軍占領期
外国の連合軍占領期

外部リンク