遠藤 健(えんどう たけし、1920年9月13日 - 1943年5月15日)は、日本陸軍軍人戦闘機操縦者東京府生まれ、福岡県香住ヶ丘出身[1]

概要 編集

陸軍航空士官学校53期。戦隊長加藤建夫中佐の下加藤隼戦闘隊として有名な日本陸軍飛行第64戦隊で活躍。いつももの静かで、行いすました禅僧のような所があった[1]という。尺八の名手。昭和18年(1943年)5月15日「中華民国(現中華人民共和国)雲南省双渭南方10粁(キロメートル)[2]」にて戦死。

遠藤機の最後[3] 編集

1943年(昭和18年)5月、中国軍が桂林より増派との情報により、その根拠地、昆明飛行場を爆撃し、日本軍機の数倍の敵の兵力に対して、5月15日爆撃が敢行された。 その直援隊として遠藤中隊は爆撃隊の左側上の位置を護り、他機ともに攻撃を受けることなく昆明飛行場爆撃を成功させた。帰路に向けて旋回の直後、P-40 戦闘機多数の奇襲を受けた。爆撃機護衛位置の遠藤隊は後上方よりP-40 の襲撃を受け、遠藤機と中隊の3機は機首をめぐらし突進したところ、十数機に包囲され、それを撃退して編隊飛行に戻ったところ、再び敵機の編隊攻撃を受けた。遠藤機は、敵P-40戦闘機を一機撃墜後、ほぼ同時に昆明湖南方に墜落するのが目撃された。 遠藤中尉は最後の出撃となる15日の早朝、空を見上げて「きょう昆明で死ぬのは本望だな」と同僚の檜與平中尉に言い、「おれが死んだら、きさまにあの尺八をやるよ」とかわいた目で檜中尉を見つめたという。彼の遺品をまとめた檜中尉によれば「部屋には、磨きあげられた尺八と、封の切られていない遠藤中尉の若妻からの手紙が残されていた」という。

経歴[4] 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 檜與平「つばさの血戦」光人社 p.118
  2. ^ 檜與平「つばさの血戦」光人社 p.311
  3. ^ 檜與平「つばさの血戦」光人社 p.113~120
  4. ^ 遠藤健・檜與平「加藤隼戦闘隊」(復刻版) カゼット p.314 

著作 編集

  • 『加藤隼戦闘部隊』 - 64戦隊を離れ内地の明野飛行学校に異動した際に、前任の加藤部隊及び、加藤建夫陸軍少将について著した戦時中の著作。1944年の映画加藤隼戦闘隊の原作。同僚の檜與平陸軍中尉との共同著作。

関連項目 編集