邸 浹(てい しょう、? - 1303年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。父は邸順

生涯 編集

邸浹はモンゴル帝国に仕えた漢人世侯の邸順の息子で、父の死後に地位を継承した。1258年より第4代皇帝モンケ・カアン南宋親征が始まると、東平路行軍万戸厳忠済保定軍民万戸張柔真定万戸史権大名路行軍万戸王文幹・山東行尚書省兵馬都元帥張宏・水軍万戸解誠・水軍万戸張栄実らとともに皇弟クビライ率いる軍団に属した[1]1259年己未)、モンケ・カアンが急死するとクビライは友軍を救うために長江を渡って鄂州を包囲し、この時の戦闘で邸浹も功績を挙げた。

中統元年(1260年)、クビライが即位を宣言すると、邸浹は張宣ら12人とともに朝廷に奏聞し、金銀符を下賜された。中統3年(1262年)に李璮の乱が起こった時には、領地に帰還して息州を守っている。至元11年(1274年)、虎符を下賜され、金州招討副使の地位を授かった。さらにその後、遷懐遠大将軍・金州万戸の地位に移っている。至元13年(1276年)に襄陽管軍万戸となり、同年3月に枢密院の上奏により行淮西総管万戸府事となって廬州を守った[2]

至元14年(1277年)、龍興に移って本翼軍人を管領した。至元15年(1278年)、管軍万戸に復し、贛州の崖石寨・太平岩を拠点とする賊を討伐する功績を挙げた。至元17年(1280年)、鎮国上将軍・都元帥に昇格となって龍興諸路を鎮撫し、管本万戸府事を兼ねた。吉州・贛州で盗賊が起こると、行省の命により元帥府に移ってこの地を鎮撫した。至元21年(1284年)、元帥府を廃止して万戸職に戻った。至元23年(1286年)、帰徳万戸とされ、吉安を鎮守した。それから程なく、江西の各万戸を統領し、兵七千を集めて広東地方を守った。大徳7年(1303年)、77歳にして亡くなった[3]

息子に邸栄仁がおり、宣武将軍・帰徳万戸の地位を得て広東の惠州を鎮守したが、病にかかり職を退いた。その後、息子の邸貫、その息子の邸士忠、その息子の邸文が地位を継承していった[4]

脚注 編集

  1. ^ 池内1984, p. 10-11.
  2. ^ 『元史』巻151列伝38邸順伝,「子浹、襲職。己未、従世祖渡江、囲鄂州、有戦功。中統元年、世祖即位、浹以所部張宣等十二人奏聞于朝、遂以金銀符賜之。三年、囲李璮、還守息州。至元十一年、賜虎符、授金州招討副使、後又遷懐遠大将軍・金州万戸。十三年、改襄陽管軍万戸。三月、以枢密院奏、行淮西総管万戸府事、守廬州」
  3. ^ 『元史』巻151列伝38邸順伝,「十四年、移龍興、仍管領本翼軍人。十五年、復為管軍万戸、攻贛州崖石寨・太平岩賊有功。十七年、陞鎮国上将軍・都元帥、鎮龍興諸路、兼管本万戸府事、賜銀印。吉・贛盜起、行省遷元帥府以鎮之。二十一年、元帥府罷、復為万戸。二十三年、佩元降虎符、為帰徳万戸、鎮守吉安。未幾、統領江西各万戸、集兵七千戍広東、凡二載。大徳三年卒、年七十七。贈輔国上将軍・北庭元帥府都元帥・護軍、追封高陽郡公、諡襄敏」
  4. ^ 『元史』巻151列伝38邸順伝,「子栄仁、襲佩其虎符、為宣武将軍・帰徳万戸、鎮広東惠州、感瘴疾、不任事。子貫襲。貫卒、子士忠襲。士忠卒、子文襲。順族弟琮」

参考文献 編集

  • 池内功「フビライ政權の成立とフビライ摩下の漢軍」『東洋史研究』第43巻第2号、東洋史研究會、1984年9月、239-274頁、doi:10.14989/153948hdl:2433/153948ISSN 0386-9059CRID 1390572174787583872 
  • 元史』巻151列伝38邸順伝
  • 新元史』巻144列伝41邸順伝
  • 蒙兀児史記』巻53列伝35邸順伝