鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日文久2年12月28日) - 1916年大正5年)8月20日)は、明治時代日本の外交官。

人物 編集

肥前国長崎生まれ。鄭家は鄭成功の末裔と称し、明朝滅亡後、その遺臣として日本に亡命し定着した。長崎では代々、唐人屋敷清朝の役人の通訳を稼業とした(幕末の時期は勝海舟をはじめとした長崎海軍伝習所教習生とも交流)。父の鄭永寧、兄の鄭永昌も外交官である[1]。義兄(父・永寧の養父・鄭幹輔庶子で、永寧の長男として養子縁組した)鄭永慶は日本で初めて本格的なコーヒー店「可否茶館」を開いたことで知られる[2][3][4]

東京外国語学校(現在の東京外国語大学)卒業後、北京公使館員として北京に赴任。1885年天津条約締結のための会談では父・永寧の見習いとして同行し、伊藤博文の通訳を務めた[5]1905年日露戦争後の満州善後条約締結時には小村寿太郎の通訳を務めた。

長男は法政大学教授の鄭審一で、その息子の鄭喜一は産経新聞の記者を務めた[6]

授章 編集

関連人物 編集

著書 編集

  • 『官話指南』(1882年、呉啓太と共著)

脚注 編集

  1. ^ 日本人名大辞典+Plus,朝日日本歴史人物事典, デジタル版. “鄭永寧(てい えいねい)とは - コトバンク”. コトバンク. 2018年5月25日閲覧。
  2. ^ 日本コーヒー文化学会『コーヒーの事典』柴田書店、2001年、p. 136
  3. ^ 鄭永慶日本人名大辞典
  4. ^ 倉敷珈琲物語 第28話「鄭永慶の生涯-その1」”. 株式会社サンヨーフィル. 2018年5月26日閲覧。
  5. ^ 『対支回顧録』上巻、対支功労者伝記編纂会、1936年、182頁
  6. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年10月22日閲覧。
  7. ^ 『官報』第6265号「叙任及辞令」1904年5月21日。
  8. ^ 「廣瀨實榮 (男性)」人事興信録データベース第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学大学院法学研究科