酒井 豊教(さかい とよのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての丹波国武将丹波酒井氏の一族、初田酒井氏の当主で大沢城主。

 
酒井豊教
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 酒井和泉守
官位 和泉守
主君 波多野元秀
氏族 丹波酒井氏
父母 父:酒井与大夫
兄弟 豊教吉教
氏武
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生没年は不明であるが、波多野元秀に仕えたことから概ね15世紀前半に活躍した人物であるとされる。居城の大沢城も、豊教が当主であった頃の永禄年間の築城と伝わる。他の酒井四家の中でも、初田酒井氏が矢代酒井氏から独立したのは比較的最近で、矢代氏当主、酒井益氏の庶子が庶流家として分家したのが始まりである。そのため、史料にはほとんど現れず、正確に現れ始めるのは、これも豊教の時代となってからである。しかし、豊教は波多野元秀右筆を務め、その配下で書状の発給を行うという活躍をし、酒井家家中でも徐々にその頭角を現し、惣領家に並んで酒井四家の一つに数えられるようになった。嫡男の氏武は幼少であったにもかかわらず、『栗栖野信政等連署寄進状』に署名をしており、本家の矢代氏と同格の立場で行動している。 このとき、氏武は3歳であったが、初田氏の家督を豊教から譲り受けていることがわかる。よって、以上のような事実を踏まえると、この時点で豊教は既に亡くなっていると考えられ、その没年はおよそ1560年代前半であると推定される。また、大沢荘や犬甘保一帯を本拠としており、初田氏の当主は、酒井氏始祖の酒井政親の旧居館跡、初田館に居住している。さらに、領地内の内政については、家老の杉本氏や石野氏らが補佐した。これらの杉本氏や石野氏両氏は、戦時になると大沢城の付城である佐幾山城、禄庄城の城主として明智軍の城攻めに抗戦している。