金子家(かねこけ)は、武家華族だった日本桓武平氏村山党金子氏の庶流と伝わり、近世には筑前国福岡藩の下士だったが、近代に金子堅太郎を出し、その功績により華族伯爵家に列した[1]

金子家
本姓 桓武平氏金子氏庶流
種別 武家
華族(男爵子爵伯爵)
主な根拠地 筑前国
東京市麹町区三番町
東京都品川区東五反田
著名な人物 金子堅太郎
凡例 / Category:日本の氏族

歴史 編集

金子堅太郎まで 編集

源平争乱の頃の村山党の一方の旗頭である武蔵国住人金子十郎家忠を祖とすると伝わる。その6世孫の玄蕃頭時信の時に征西将軍懐良親王に随従して九州へ移住し、菊池氏以下勤王諸族とともに足利氏隷属の徒と激戦し、正平10年(1355年)11月17日に北九州鎮定の功を立て、親王の博多御進駐・大宰府御占領を拝した[2]。それを記念して金子家では代々11月17日に鉾神社の本祭を行い、4月8日に陰祭を行って祖先の軍忠を偲ぶという[2]

しかし今川貞世建徳元年(1370年)に九州探題としてやってきて筑前国姪浜に府を開くと、勤王諸族に対する探題の攻撃や捜索が激しくなったので、時信の一子は姓名を隠して姪浜に隠れ住むことになったという。その子孫は寛文年間中に再び金子を名乗るようになったが、当時は姪浜の商人になっていたという[3]享保年間に早良郡鳥飼村に移住して帰農していたが、金子堅太郎の曽祖父の太郎次の代の文化年間中小人組の株を買い、福岡藩黒田家の微臣となった[3]

太郎次は福岡藩士の柴田某が借財だらけになって家督を継ぐ者もなく困っていたのを憂い、柴田家の借財返済を肩代わりするとともに息子の与平を同家の養子に入れた[3]。しかし与平は座頭金(盲人の高利貸)に苦しんでいた同僚を救うためにその送金を保証したところ違約のやむなきに至り、福岡藩の江戸留守居役が返済して藩の面目を保つも、この一件で柴田与平は同僚と共に家禄召し上げとなり、柴田家は断絶してしまった[4]

そこで太郎次は与平の子である直道(清蔵)を引き取って養子とし、直道は浮組という福岡藩諸役所の書役を務める足軽と士分の中間身分の株を買い、勘定所付の小役人となった[4]。この金子清蔵直道が金子堅太郎の父である[4]

金子堅太郎伯爵家 編集

 
金子堅太郎伯爵

金子堅太郎は明治4年(1871年)からアメリカハーバード大学に留学して法律学を学んだ。小村寿太郎と寝食を共にし、また級友に後の米大統領セオドア・ルーズベルトがいた[5]。明治11年(1878年)に帰国した後、元老院書記官となり、伊藤博文の知遇を得たことで、明治18年(1885年)に総理大臣秘書官となり、ついで枢密院議長秘書官を務めた[5]。この間、井上毅伊東巳代治とともに伊藤博文を補佐して明治憲法草案、および衆議院議員選挙法貴族院令などの付属法案の起草に参画するなど近代法制の整備に貢献した[5]。明治23年(1890年)に貴族院書記官長となり、農商務省次官を経て、明治31年(1898年)に第3次伊藤内閣農商務大臣として入閣、この際に伊藤の新党計画や立憲政友会創立にも関与した[5]。ついで明治33年(1900年)に第4次伊藤内閣でも司法大臣を務めた[5]。同年5月9日に多年の功により華族男爵に列せられた[6]。日露戦争に際してはアメリカに特派され、ハーバード大学で同窓だったセオドア・ルーズベルト大統領に接触してアメリカ世論の親日誘導にあたった[5]。明治39年(1906年)には枢密顧問官となり、「憲法の番人」をもって自任した[5]。明治40年(1907年)9月23日に渡米の外交の功により子爵に陞爵した[6]。晩年には維新史料編纂会総裁や臨時帝室編集局総裁を務め、『明治天皇紀』編集の中心となった[5][1]。その勲功により、昭和9年(1934年)1月4日に伯爵に陞爵した[6]。昭和前期における金子伯爵家の住居は東京市麹町区三番町にあった[7]

堅太郎の死後、武麿(明治30年12月22日生、昭和34年1月14日没)が家督と爵位を相続。彼は電気化学工業会社取締役などを務めた実業家で[7]、貴族院議員であった[1]。その息子は正忠大正11年5月28日生)。彼の代の平成前期に金子家の住居は東京都品川区東五反田にあった[1]

系図 編集

実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 上巻』[1]に準拠。
金子直道
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
堅太郎ヨシ[† 1]辰武郎[† 2]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武麿キヨ[† 3]文子直忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正忠春子[† 4]広忠
 
 
朗子[† 5]
系譜注
  1. ^ 団琢磨夫人
  2. ^ 分家
  3. ^ 川崎肇夫人
  4. ^ 田中安喜二夫人
  5. ^ 金子栄治夫人

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ a b c d e 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 442.
  2. ^ a b 藤井新一 1942, p. 4.
  3. ^ a b c 藤井新一 1942, p. 5.
  4. ^ a b c 藤井新一 1942, p. 6.
  5. ^ a b c d e f g h 朝日日本歴史人物事典 /日本大百科全書(ニッポニカ)朝日日本歴史人物事典/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『金子堅太郎』 - コトバンク
  6. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 352.
  7. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 112.

参考文献 編集

  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 藤井新一『帝国憲法と金子伯』講談社、1942年(昭和17年)。