金子 新(かねこ しん、1905年3月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元歌舞伎役者である[1][2][3][4]。本名は金子 金太郎(かねこ きんたろう)[1][2][3][4]。旧芸名は實川 若之助(じつかわ じゃくのすけ)[1][2][3][4]金子 庸之助(かねこ ようのすけ)[3][4]金子 伸と表記に揺れがある。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である[1][2]

かねこ しん
金子 新
本名 金子 金太郎 (かねこ きんたろう)
別名義 實川 若之助 (じつかわ じゃくのすけ)
金子 庸之助 (かねこ ようのすけ)
金子 伸
生年月日 (1905-03-26) 1905年3月26日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市浅草区浅草新吉原(現在の東京都台東区千束3-4丁目辺り)
身長 159.1cm
職業 俳優、元歌舞伎役者
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1912年 - 1932年
主な作品
浪人地獄
倶利加羅峠 愛怨篇
万花地獄 第四篇
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来歴・人物 編集

1905年(明治38年)3月26日東京府東京市浅草区浅草新吉原(現在の東京都台東区千束3-4丁目辺り)に生まれる[1][2][3][4]。1912年(明治45年)、7歳で實川延若(1877年 - 1951年)の一座に加わり、浪花座で初舞台を踏む[1][2][3][4]。1917年(大正6年)には正式に延若の門下となり、實川若之助と改名する[1][2][3][4]

1925年(大正14年)、実川延松プロダクションに入社し、同年10月4日公開の勝見正義監督映画『目明し佐吉の死』で映画デビューを果たすが、諸事情により間も無く退社[1][2][3]。1926年(大正15年)9月、マキノ・プロダクションに入社[1][2][3][4]。芸名も金子新と改名し、以後、同社の主要人物の一人として多数の作品に出演する[1][2][3][4]。1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、京都府葛野郡花園村上谷口龍安寺斎宮町(現在の同府京都市右京区龍安寺斎宮町)に住み、身長は5尺2寸5分(約159.1センチメートル)、体重は13貫300匁(約49.9キログラム)、趣味は長唄三味線浄瑠璃投扇興であり、洋食甘味の物が嗜好であるという[1][2]

1931年(昭和6年)のマキノ・プロダクション解散後は、同社の監督であった金森萬象(1893年 - 1982年)が設立した協立映画プロダクションに参加[3][4]。2本の作品に出演した後、1932年(昭和7年)、金子庸之助と改名して嵐寛寿郎プロダクションへ移籍[3][4]。しかし、同年8月12日に公開された並木鏡太郎監督映画『浪人笠五十三次』以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である[3][4]。トーキー作品への出演は1作もなく、出演作品はすべてサイレント映画であった。没年不詳。金子の来歴について記載されている資料はほとんど存在しない。

出演作品 編集

マキノ・プロダクション御室撮影所 編集

特筆以外、全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、全てサイレント映画、全て「金子新」名義である。

協立映画プロダクション 編集

全て製作・配給は「協立映画プロダクション」、全てサイレント映画、全て「金子新」名義である。

  • 魔の上海』:監督金森萬象、1932年5月1日公開
  • 光を仰ぎて』:監督金森萬象、1932年月日不明公開 - 主演

嵐寛寿郎プロダクション 編集

全て製作は「嵐寛寿郎プロダクション」、配給は「新興キネマ」、全てサイレント映画、全て「金子庸之助」名義である。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1928年、45頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、56-57頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本映画興亡史 マキノ一家』ワイズ出版、2000年、32頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本映画人改名・改称事典』国書刊行会、2004年。

関連項目 編集

外部リンク 編集