金田房吉

大日本帝国陸軍軍人

金田 房吉(かねだ ふさきち、1870年3月28日明治3年2月27日[1]) - 1942年昭和17年)4月[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将位階および勲等、軍功は従四位勲三等功四級[3]。旧姓・十時。

金田 房吉
生誕 1870年3月28日
豊前国企救郡小倉
死没 1942年4月??
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1894年 - 1920年
最終階級 陸軍少将
墓所 品川区海晏寺
テンプレートを表示

経歴・人物 編集

豊前国企救郡小倉(福岡県小倉市を経て現在の北九州市)出身[4]。十時久蔵の三男として生まれ、1893年(明治26年)2月に金田醇雄の養子となった[5]1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校第2期卒業[注 1]。1892年(明治25年)3月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第1連隊付となる[6][7]陸軍幼年学校在学中から中国語の習得を命じられており、日清戦争の際には特務に従事し、さらに台湾征討に従軍した[4]日露戦争時には、馬山浦仁川鎮南浦上陸・兵站計測のための特務に従事し、さらに柳樹屯・営口上陸・糧秣輸送に当たり、1905年(明治38年)に少佐に昇進して歩兵第50連隊大隊長となった[4]

1914年大正3年)9月に札幌連隊区司令官、1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐1917年(大正6年)8月に歩兵第68連隊長を歴任[2][3]シベリア出兵ではハルビン満州里・アンチピハに派遣された[4]1920年(大正9年)8月に陸軍少将に昇進と同時に待命、同9年12月に予備役に編入した[2][3]

その後、岐阜市に住み、岐阜県教育会副会長、岐阜県社会事業協会理事などを務めた[4]

栄典 編集

位階
勲章等

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』222頁、『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』117頁では陸士5期としているが、少尉任官が明治25年3月であり陸士2期卒業生の任官と同一である。『官報』第2427号(明治24年8月1日)掲載の陸士2期卒業生の名簿、『官報』第2615号(明治25年3月22日)掲載の少尉任官、配属先の告示では十時房吉が記されている。

出典 編集

  1. ^ 『札幌之人』114頁。
  2. ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』222頁。
  3. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』117頁。
  4. ^ a b c d e 濃飛人物大鑑 1935, p. 63.
  5. ^ 人事興信録 1918, p. か110.
  6. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 明治27年7月1日』107頁。
  7. ^ 『官報』第2615号、明治25年3月22日。
  8. ^ a b 『陸軍歩兵大佐金田房吉外百十八名叙位ノ件』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ、大正8年7月8日。
  9. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献 編集

  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 『濃飛人物大鑑』藍南社出版部、1935年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。 
  • 鈴木源十郎編『札幌之人』鈴木源十郎、1915年。
  • 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 明治27年7月1日』陸軍省、1894年。