鈴木亜久里

日本の元F1ドライバー

鈴木 亜久里(すずき あぐり、1960年9月8日 - )は、元レーシングドライバーで実業家、株式会社アルネックス代表取締役。東京都板橋区出身。身長:180cm。 血液型A型。

鈴木 亜久里
鈴木 亜久里 (2008年)
基本情報
略称表記 SUZ
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都板橋区
生年月日 (1960-09-08) 1960年9月8日(63歳)
F1での経歴
活動時期 1988,1989-1993,1994,1995
所属チーム '88,'90-'91 ラルース
'89 ザクスピード
'92-'93 フットワーク (アロウズ)
'94 ジョーダン
'95 リジェ
出走回数 88 (64スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 1
通算獲得ポイント 8
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1988年日本GP
最終戦 1995年日本GP
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中嶋悟に次ぐ日本人2人目のF1フルタイムドライバー。

経歴 編集

生い立ち 編集

東京都で生まれる。父親の鈴木正士(愛称:ジャッキー[注釈 1])はフランス領マルティニーク出身のフランス人と日本人の間に生まれたハーフで、亜久里自身はクォーターになる。名前の"亜久里"は、根本進の漫画『クリちゃん』に登場する兄弟(「アッちゃん」と「クリちゃん」)が由来である[注釈 2]

父・正士(1936-2011)は神戸生まれで愛媛県新居浜市千葉県市川市で育ち、習志野市東邦大学付属東邦高等学校卒業後、日本大学芸術学部で演劇を学び、日大応援団長も務めたのち、ホンダ航空で整備に携わった[1]。レーサーの浮谷東次郎とも親交があり、浮谷から教わったレーシングカートの普及に携わることになる。1973年にカートショップ「ビック」を設立し、日本自動車連盟のカート委員も務めた[1]。また、生沢徹本田博俊日本大学の同窓生であり、学生結婚で生まれた亜久里は、博俊の父である本田宗一郎に可愛がられた。

所沢市立東中学校埼玉県立新座高等学校卒業。城西大学理学部中退。

国内時代 編集

カート時代 編集

1972年にカートレースデビュー。亜久里はカート協会の実力者だった父との二人三脚で国内カート界を代表する若手に成長を遂げる。1978年、1981年に全日本カート選手権A2クラスのチャンピオンに輝く。

F3 編集

1979年から当時の最年少デビュー(18歳)で全日本F3選手権に参戦。しかしF3ではなかなか好成績を挙げられず、1983年1985年にはシリーズ2位に入るものの、結局8年間もF3にとどまってしまう。この時期、同年齢の高橋徹が驚異の新人と騒がれた一方で、「カートでのしてきた鈴木亜久里もこれまでか」と見る向きもあった。

1983年シーズン終了後、レース活動資金が底をつき、使用していたエンジンチューナーのトムスがF3での活動を一時撤退したことから、引退を考えた時期がある。その相談をトムスの舘信秀に持ちかけたところ、舘は「(参戦しない)ウチにいてもしょうがない」と[2]、トヨタ系の舘が日産系セントラル20のオーナーで舘の親友である柳田春人柳田真孝の父)を紹介した。

グループA/グループC 編集

その縁で亜久里は1984年に日産のF3エンジン開発を任され、1985年ワークス活動を再開した日産ニスモ)のワークスドライバーに抜擢される。全日本ツーリングカー選手権(グループA)にニスモからスカイラインRSターボで参戦、また全日本耐久選手権(グループC)にも柳田とのコンビでローラ・T810/日産で参戦することになった。亜久里はそのキャリアで初めて参戦資金を気にしないでレースに専念できることになった。

1986年、テスト中の事故で死去した萩原光の後任に指名され、ニスモにとって初挑戦となるル・マン24時間レース星野一義松本恵二とのトリオで初挑戦(結果はリタイア)。この年はグループAにてシリーズチャンピオンを獲得。カートからフォーミュラカーに進んだが、初タイトルを取ったカテゴリーはツーリングカーレースとなった。

F2/F3000 編集

またこの頃オイルの輸入業によって資金を得たことで、富士GCシリーズ参戦の機会を得た。そこでの走りがヤマハエンジンの名チューナーとして名を馳せた松浦賢、ムーンクラフトの由良拓也の目に留まり、1986年の全日本F2最終戦からムーンクラフトのシートを獲得する。

1987年、新装となった全日本F3000選手権に参戦。大手運送会社のフットワークという大口スポンサーを掴んだことに加え、上述の松浦とのつながりからヤマハがコスワースDFVをベースに開発したコスワース・ヤマハOX77エンジン(5バルブ仕様)のワークスとなったことで勝てる体制を得て、1987年にはシリーズ2位、翌1988年には星野一義とのチャンピオン争いに勝ちシリーズチャンピオンを獲得した。この88年には日本のF3000とスケジュールがぶつからない日程の国際F3000選手権にもスポット参戦で挑んだが、レイナードローラのシャーシが優勢だったヨーロッパにマーチ・88Bでの参戦だったことで予選を通過するのがやっとだった。その状況でポー市街地コースを劣勢のマーチシャーシで予選通過したこと[注釈 3]、決勝日朝のウォームアップ走行で6位のタイムを出したことで欧州のメディア陣から注目を浴びた。エイドリアン・レイナードゴードン・コパックなど現地にいたマシンデザイナーたちも「マーチで予選を通過するとは思わなかった」と、そのアタックを讃えた[3]

F1時代 編集

F1デビュー 編集

既にザクスピードと契約し翌1989年のF1デビューを決めていた亜久里であったが、1988年10月30日決勝の日本GPに、中耳炎により急遽欠場となったヤニック・ダルマスの代役としてラルースチームからスポット参戦という思わぬ形でF1デビューを飾る。

この時、亜久里はフジテレビF1中継のゲスト解説者として鈴鹿入りする際の東海道新幹線内でF1参戦決定を知らされ、急遽後発のスタッフに自身のヘルメットを持参させ、 フィリップ・アリオーのレーシングスーツを着用してレースに臨んだ。しかしノンターボエンジン搭載の非力なマシンと、セッティングも万全ではなくレース中に数回のスピンを喫しながら16位で完走。ラルースからは次戦オーストラリアGPの出走もオファーされたが、日本でのレース参戦が事前に決まっていたため都合がつかずに断念している[4]

全戦予備予選落ち 編集

 
ザクスピード・891・ヤマハ

1989年には満を持してザクスピード・ヤマハでF1にフル参戦を開始。しかし、この年のザクスピード・ヤマハのマシンは致命的に戦闘力が不足しており、ヤマハOX88・V8エンジンもパワーが不足していた。ザクスピードスタッフの技術力もトランスミッションのギアの順番を間違えて組んでしまう未熟さで、亜久里はこの年「シーズン全16戦全て予備予選落ち」という不名誉な記録を作ってしまう。

予備予選向けの仮設チームガレージには、予備予選落ちを繰り返し、思うようなタイムが出せない、走らない車に「捨てちまえよ、こんな車!」と亜久里のそんな怒気を帯びる声が響くこともあった[5]。ちなみにチームメイトのベルント・シュナイダーも16戦中予備予選通過は2回のみ(開幕戦のブラジルGP日本GP)であった。

日本人初の表彰台 編集

 
ローラLC90・ランボルギーニ

1990年は、自身のパーソナル・スポンサーであった伊東和夫(エスポ・コミュニケーションズ社長)が、この年よりチームオーナーとなっていたラルースチームに移籍。

バランスがよく扱いやすいローラ製のシャーシにパワーのあるランボルギーニV12エンジンを搭載したラルースのマシンは、シーズンが進むにつれて戦闘力を発揮するようになる。この年ラルースは予備予選を課せられていたが、チームメイトのエリック・ベルナールともども前半戦は全戦通過。前半戦でのポイント獲得で後半戦の予備予選が免除となった。また、この予備予選の1時間も戦闘力アップのための格好なテストとなっていた。

まずまずの戦闘力を持つマシンを手にし、「これでダメなら引退」との思いで臨んだシーズン中盤のイギリスGPで6位初入賞し、終盤のスペインGPでも再び6位入賞を記録。次戦日本GPでは上位勢がクラッシュなどで離脱する波乱のレースを、一時はファステストラップを記録して生き残り、ついに3位初表彰台を獲得した。これは2004年アメリカGP佐藤琢磨が3位入賞するまで、長い間アジア人ドライバーとして唯一のF1における表彰台だった。また日本人ドライバーの母国グランプリでの表彰台は、2012年小林可夢偉が3位表彰台に上がるまで唯一のものであった。

この日本GP前には、ベネトン代表のフラビオ・ブリアトーレからオファーを受け、1991年からの3年契約に合意していた[6]。ラルースとの2年契約がもう1年残っていたが、すでにチームの資金不足が深刻化しており、「今年限りで撤退するからなんとかなるだろう」と思っていたという[7]。しかし、他の日本系スポンサーの支援でチームは存続し、亜久里の契約も引き継がれたため、ベネトンへの移籍話も実現しなかった。とは言え、代わりにベネトンに加入したロベルト・モレノがイタリアGPでミハエル・シューマッハに交代させられたため、「移籍できたとしても、どのみちクビだったかもしれない」と語っている。

また、1990年は経験不足を補うため、F1のほかにトヨタから世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)にもエントリーをして二足の草鞋を履くという努力をしている。当時のWSPCはほぼF1と同じサーキットで開催されており、予備予選の僅かな時間しか走行できないハンデをWSPCに出場する事で補っていた。

苦難の始まり 編集

1991年のシーズン開幕前に、チームは前年のコンストラクターズポイントの剥奪処分を受けた。ローラ製シャシーを使用していたにもかかわらず、コンストラクター名を「ラルース」と誤った名称でエントリーしたことが理由とされた。また、ポイントを失ったことにより予備予選の対象とされるとも発表された(その後の裁定で、実際には予備予選の対象からは外された)[8][9]。この処分によって前年のコンストラクターズランキング10位までのチームに与えられる移動手段(FOCA便)の使用権が剥奪されたが、ラルースの移動費用はFOCAにより補填された[9]。この処分をめぐっては、前年のコンストラクターズランキングで11位に終わり、ラルースの処分によってFOCA便の使用権を得ることができるリジェによる訴えがあったと見られた[9]。さらにバブル経済の崩壊でメインスポンサーのエスポが支援を縮小し、チームは資金難に陥る。その影響で前年の活躍を支えたランボルギーニエンジンの代金支払いが滞り、リジェに奪われてしまい、翌年は非力なコスワースDFRでの参戦となる。

このような厳しい状況に置かれた中開幕戦のアメリカGPでは中嶋悟に次ぐ6位に入賞するも、それ以降はベルギーGPをはじめとする4度の予選落ちを含め、一度も完走することができなかった。

エースドライバーとしてフットワークへ移籍 編集

1992年に亜久里はかつてF3000時代のスポンサーだった縁から、アロウズを買収したフットワークチームに移籍。オーナーは日本人の大橋渡、エンジンも日本の無限ホンダという、事実上亜久里をエースドライバーとするアグリズチームといえ、それまでよりも遥かに安定した力を持つチームからの参戦が可能となった。前年1ポイントを獲得したこともあり、課せられていた予備予選も亜久里は免除された(チームメートのアルボレートが予備予選から出走した)。

ホンダV10をベースとする無限エンジンを積んだフットワークのマシンに期待が集まったが、92年シーズンの最高位はスペインGPの7位、入賞はおろか完走すらおぼつかないと言う結果に終わる。シーズン前半には「コクピットが狭く、自身のドライビングポジションが取れない」旨を繰り返し訴えてはいたが、この点を改良したシャーシ投入後も亜久里は精彩を欠いていた[注釈 4]

1993年はシーズン途中にマクラーレン製のアクティブサスペンションを購入してから、マシンバランスに起因するハンドリング不良を打ち消すことに成功、予選トップ10の常連となる。特にベルギーGPでは当時の日本人予選最高位タイの6番手[注釈 5](初日5位)に入り、90年鈴鹿での表彰台の再来が大いに期待された。しかし、FA14はギアボックスのトラブルが多く、第9戦イギリスGPから第15戦日本GPまで7戦連続でリタイアを喫してしまい、最終戦のオーストラリアでも7位に終わってしまった。

結局フットワーク時代の2年間は、表彰台はおろか入賞さえもできずに終わってしまう。チームメイトに迎えたミケーレ・アルボレート(92年)とデレック・ワーウィック(93年)の両ベテランドライバーが、老練なる走りにて着実にポイントを獲得したこともあり(特に92年のアルボレートは11戦連続完走し、そのシーズン最も決勝レースにて周回数を稼いだ)、亜久里のドライバーとしての評価も微妙なものとなってしまった。

チームオーナーの大橋渡が計画したチーム監督ジャッキー・オリバーの更迭失敗による確執や、フットワーク本体の経営不振に伴うチーム運営からの撤退、亜久里自身の成績もあり、(亜久里自身は「チームとしては運営継続されるのだから移籍はしない」とは話していたが)1993年のシーズンオフにはとうとうフットワーク(アロウズ)のシートを失ってしまう。無限ホンダエンジンを搭載することとなったロータスと移籍交渉があったが合意に至らず、結局1994年のシートを得られないまま浪人となった。

F1浪人 編集

1994年には、かつての恩人・舘信秀の誘いを受け、亜久里の提示する条件[注釈 6]トヨタが飲む形でトムスから全日本ツーリングカー選手権(JTCC)に参戦した。

だが、F1への復帰は諦めておらず、開幕のブラジルGPにて多重クラッシュの要因を作ってしまったことにより、レース出場停止中となったエディ・アーバインの代役として、第2戦パシフィックGPに、ジョーダンから1戦のみスポット参戦した。リタイア直後、ピットリポーターの津川哲夫が「次…(じゃあ、頑張って下さい)」と発すると、「次、無いんだ」との返答をしている。当意即妙ではあったものの、このシーズンの亜久里の立場をよく表すものであった。

元々亜久里自身はスポット参戦には否定的であった。その理由は、スポット参戦と言う僅かな時間で実力を発揮する事の難しさと自身の責任に依らないリタイア等でキャリアに傷を付けてしまうリスクが非常に高い故であった。ルーキーなら兎も角、すでにキャリアを積んでいる亜久里にとってはデメリットの方が大きかった(ジョーダンからは続くサンマリノGPとモナコGPへのオファーもあったが亜久里自身が断っている)。しかしそれを覆しスポット参戦したのは周りからの強い要望(特にパシフィックGPのスポンサーからの要望)があったゆえである[注釈 7]

F1復帰と引退 編集

 
リジェJS41・無限ホンダ

1995年には無限エンジンを積むリジェチームと、オリビエ・パニスのチームメイトとして契約した。しかし開幕直前になって、マネージングディレクターのトム・ウォーキンショーが推すマーティン・ブランドルとシートをシェアする形になることが発表され、亜久里はわずか6戦に参戦するに留まった。ウォーキンショーが必要としたのは無限エンジンであり、その為に日本人ドライバーである亜久里を起用したに過ぎなかったためである。また、トム・ウォーキンショー・レーシング (TWR) が運営していた耐久レースのジャガーチームで活躍したブランドルを優先させたいという思惑もあった。

亜久里サイドは全戦契約のつもりであったようだが、契約締結後、日本に帰国した時にはブランドルとのシートシェアがチームから発表されているなど、チーム側(特にウォーキンショー)の不可解な契約解釈もあり、ブランドルでさえ日本にいる自身のファンの反応を気にするなど、亜久里の扱いに同情が集まることとなった[注釈 8]

こうした逆風の中、ドイツGPでは実に4年振り(51戦振り)となる6位入賞を果たしたものの、チームメイトのパニス、そしてシートシェアしたブランドルの両者は、そのシーズンに表彰台にも登っており、さしたるアピールとはならなかった。

ひそかに亜久里は最後の花道を飾るつもりで、その年の日本GPに臨んだ。予選後には引退会見を行うつもりだったが[6]、予選2日目のアタック中にS字コーナーでクラッシュを喫して肋骨骨折肺挫傷の重傷を負った。翌日のレースを走ることなく、亜久里はF1から引退することになった。

ドライバーからオーナーへ 編集

 
SUPER GTに参戦するARTAのガライヤ
 
IRLに参戦するスーパーアグリ・フェルナンデス・レーシングの松浦孝亮

F1ドライバーを引退した亜久里は、1996年にスーパーアグリカンパニーを設立。自らはドライバーとして全日本GT選手権ル・マン24時間レースに参戦し、1998年のル・マンでは総合3位に入賞、日本人では初めてF1とル・マンの両方の表彰台に上がったドライバーとなる。一方で、船井電機をスポンサーとした「FUNAI SUPER AGURI」チームを率いてフォーミュラ・ニッポンにエントリーした。

1997年のシーズンオフにはオートバックスと提携して「ARTA(AUTOBACS Racing Team AGURI)」プロジェクトを発足。以後チーム総監督としてフォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権に参戦したほか、若手ドライバーの育成にも取り組み、2001年にはARTAのバックアップでドイツF3に参戦した金石年弘がシリーズチャンピオンを獲得する。自身のドライバー活動もそれと並行して続けてきたが、2000年シーズンを最後に完全にレーシングドライバーを引退した。

2003年にはエイドリアン・フェルナンデス率いるフェルナンデス・レーシングとの提携で「スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング」を設立。チームオーナーとしてアメリカのフォーミュラトップカテゴリーのIRL(インディ・レーシング・リーグ)へ本格的に参戦を開始した。ロジャー安川(2003年)や松浦孝亮(2004年 - 2006年)をドライバーに起用し、当初は自ら陣頭指揮を執る力の入れようだった。

2005年には、ARTAと童夢ホンダのジョイントで作られたSUPER GT参戦のためのチーム「Team Honda Racing」のチーム代表にも就任したが、同チームは2006年一杯で解散した。

その後も自チームで活動を続け、2007年には伊藤大輔ラルフ・ファーマンによって参戦以来初のSUPER GTのタイトルを獲得した。

2010年はNSX-GTからHSV-010にスイッチし、第6戦Pokka鈴鹿700kmではポールトゥーウィンを果たした。2011年はより体制の強化を図ってドライバーを一新し、IRL帰りの武藤英紀と2010年第6戦鈴鹿でポールポジションを獲得した小林崇志を起用した。また、GT300のメンテナンスも自社(アルネックス)で行うように体制を変更した。

なおIRLについては、2007年より提携先をパンサー・レーシングに変更し、「スーパーアグリ・パンサー・レーシング」として参戦したが(ドライバーは引き続き松浦孝亮)、思うような結果が出ず、同年を最後にIRLから撤退した。

オーナーとしてF1参戦 編集

2005年には夢であったF1チームの所有に向けて動き出す。ディレクシブの支援を受け、ホンダに対してB・A・Rの共同経営を提案。その後紆余曲折を経て、ホンダからエンジン供給を取り付け、一からチームを立ち上げることを決意した。

2005年11月1日には、翌年よりスーパーアグリ・フォーミュラ1としてF1に参戦する予定であると発表(2006年3月24日にスーパーアグリF1チームに変更)。供託金振込みの延滞によりエントリーリストから漏れるも、12月20日には参戦中の10チーム全てから「レイト・エントリー」への同意を取り付け、ようやく2006年1月27日にFIAからのエントリー許可を得た。

 
佐藤琢磨がドライブするスーパーアグリSA06・ホンダ

元は因縁のウォーキンショーが所有していたアロウズの施設とメンバーを中心にしたスタッフで構成され、シャシーについても、参戦までの時間的制約と、過去2年間に他チームが使用したシャシーは知的所有権の譲渡を含めて使用できないという国際自動車連盟 (FIA) の判断が下されたことから、旧アロウズ2002年シーズンに使用していたA23をベースにした「SA05」で開幕後数戦に参戦することとなった。

2006年シーズンは準備期間の短さ、マシンの戦闘力不足、ドライバーの井出有治スーパーライセンス剥奪、大口スポンサーの獲得失敗による資金不足といった苦難に立ち向かいながら、後半戦にSA06とSA06Bを投入。獲得ポイント0点でデビューシーズンを終えた。

2年目の2007年は前半戦に佐藤琢磨が2度の入賞を果たす躍進を遂げた。しかし、ばんせい山丸証券の紹介でメインスポンサーに就任した「SS UNITED GROUP」が資金未払い問題を起こし、チームの資金繰りが悪化した。

2008年は中東の投資会社ドバイ・インターナショナル・キャピタル (DIC) へオーナーシップを譲る交渉を続け、開幕戦から出場することができた。しかし、土壇場でDICが翻意したため、スペインGP後の5月6日にF1撤退・チーム解散を表明した。

フォーミュラE 編集

2013年11月、2014年より開催される新たなモータースポーツであるフォーミュラEにスーパーアグリとして参戦することを発表した[10]。その後イギリスの保険会社アムリンをメインスポンサーに迎えたことからチーム名を「スーパーアグリ・フォーミュラEチーム」から「アムリン・アグリ・フォーミュラEチーム」に改名した。鈴木はエグゼクティブ・チェアマンとしてチームに関わる[11]。2015-2016シーズンは、アムリンがメインスポンサーから離れたため、「チーム・アグリ」としてエントリーして参戦。結局同シーズンの終了後にチームを中国の投資家グループに売却してフォーミュラEから撤退した。

2024年3月、フォーミュラEの東京 E-Prixが初開催された際には、現地選出のレーススチュワード(競技委員)として運営に携わった[12]

その他 編集

  • 2歳の頃、既に父親のベンツを立ったままで運転して近所を周っていた。
  • カート時代に同い年のアイルトン・セナと知り合い、レースをしたり2人で写真を撮る仲だった。F1ジャーナリストの川井一仁とも同い年。
  • 幼少期に両親は離婚しており、亜久里は母親に引き取られたが、カートを始めるのを機に、父親と住むことになった。
  • F3時代、足車のカローラには型落ちになったF3用レースエンジン(腰下が同じ)を積んでいた。あるレースからの帰宅途中、前方でトレーラが切り替えしを始めたがスピードが出ていたため止まり切れず、トレーラーのオーバーハングに突っ込んだ。当該カローラはピラーから上の上屋はすべて取れた(本人曰く「コンバーチブルになった」)が、亜久里自身は無傷であった上に車も自走可能であったため、実地検分を終えた後、積んであったレース用ヘルメットをかぶって運転して帰ったところ親に怒られたという。
  • F3デビュー当初は成績不振でかつ金欠だったため、転職を考えていた事もあるが、父親が自動車のオークション販売をやっていた事もあり、亜久里自身も車を買い取り乗りまわした後にメンテナンスをして転売をしていたことや、輸入物のオートマチックトランスミッション用のミッションオイルの販売を手掛けたことから、金銭的にも余裕が出て来たため参戦続行となった。
  • 全日本F3000参戦中の1987年、スポンサーだったフットワークの大橋渡に「優勝したら何が欲しい?」と問われ亜久里は「ポルシェが欲しいですね。」と答えた。第8戦の鈴鹿で優勝を果たすと、大橋からタミヤのプラモデル(ポルシェの1/24モデル)を手渡された。数日後、本物のポルシェ・911のキーが届いた。
  • ゴルフ場に行った際当時の愛車だったメルセデス・ベンツ・SLクラスが盗難されたことがある[13]
  • 1989年12月のテストで、初めてラルースのランボルギーニエンジン搭載車に乗った直後は非常に上機嫌で、「もう全然違うよ、何が違うって全部だよ全部。はじめてF1マシンに乗ったよ。踏めばちゃんと進むし、ミッションはカチッと入るし、ダウンフォースもあって路面に食いついて曲がる。これがF1だよ、今までは別クラスだった。」とコメントした[14]
  • 上記の内容もあるが、リタイア時に再現性の低いメカニカルトラブルを理由に挙げており、ザクススピードのメカニックからは嫌われていたとスポーツ雑誌等に取り上げられていた。
  • 1990年から2シーズン在籍したラルースチームについて、「ジェラール・ドゥカルージュミッシェル・テツの2人は本当にレースが好きなレースエンジニアのおじさんという感じで、このチームでは欧州でありがちな日本人に対する差別とか意地悪なんか一回も無かった。苦労もしたけどいいチームでしたよ」と述べている[15]
  • 逆に1992年からは2シーズン在籍したフットワークに関しては「そもそもあのチームは好きじゃなかった。オリバーはやる気がなく、金勘定しか頭にない。あの人の元でレースはしたくない。」「ジェンキンスがデザインしたマシンは全部一緒で、とにかく思うままに乗れなかった」「すごいオーバーステアで、速度が上がるほどフロントのダウンフォースが増えていくようなマシンだから、高速コーナーでは怖くてアクセルが踏めなかった」「ニューウェイバーナードバーンポスルスウェイトのマネしかできない」と痛烈に批判しており、チームメイトだったデレック・ワーウィックも「やる気があったのは大橋オーナーだけ」と亜久里に同調していた。
  • 1993年のシーズンオフ、翌年からハイテクが禁止される事について「ハイテク機能が禁止されるのはちょっと残念」と語っている。
  • 上述の通り、1994年、JTCCに参戦するにあたって「日本人の若手を積極的に起用して育成すること」をトヨタに約束させていたにもかかわらず、トヨタがワークスチームに外国人ドライバーを続々と送り込んだためトヨタとは絶縁状態にある。しかしながら、若い頃引退の危機を救ったトムスの舘信秀への敬愛の念は変わらず、読売新聞のインタビューで舘のことを「自分の父親のような存在」と語っている。
  • リジェで当初のフル参戦の予定からシートシェアへと変えさせられたトム・ウォーキンショーについては、五年後となる2000年のインタビューにて「僕、ウォーキンショウって好きですよ。彼と知り合ってF1のビジネスのやり方が勉強になった。あいつのやり方はおもしろい(笑)。でも僕は嘘をつけないしとぼけたりが出来ないから、ああいうふうには成れないかもね。ウォーキンショウはそういう部分うまいんだよ。」と好意的に話している[16]
  • ウォーキンショーとのその後の逸話として「'95年の当時は僕が(シートシェアになってしまって)いつまた走れるのかと悔しい思いもしたけど、でもトムは僕の100倍くらい痛手を負ってるんですよ。そのぶんの仕返しは充分にしたんです。どんな仕返しかはちょっと言えないけど、それがあってトムは僕のことを認めるようになったんだと思う。その後は対等な関係でビジネスの話をするようになったし、僕が向こうに行けばすごく丁寧に扱ってくれる。」と話し、水面下での駆け引きでウォーキンショーとビジネスの戦いをしたと示唆している[16]
  • ミハエル・シューマッハをF1デビューした頃から面倒を見ていたので、今でも仲が良い。グランプリの現場からミハエルがチャーターしたヘリに同乗して帰ることが良くある。「ミハエルに初めてキャビアを食べさせた男」とも古舘伊知郎に明かしている。デビューしたてのシューマッハはペイドライバーであったが、亜久里は億単位のギャラを得ていたため、食事を奢っていたという。約2年後にミハエル・シューマッハがF1で成功して自家用ジェットファルコンに乗り始めた当時、移動準備中の亜久里のファーストクラスのチケットを破って、「俺のシャトル(自家用ファルコンのこと)で行こうぜ!」とふざけて自慢してみせたとの逸話が残っている(なお、実際にモナコまで送り届けている)。
  • ミハエル・シューマッハのサイン入りフェラーリを売ってしまったことがある(ジャンクSPORTSにて発言)。
  • とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ)の名物コーナー「生ダラKART GRAND PRIX」の1998年12月9日放送の第3戦ブラジルGP(実際は国内のカートコースで収録)で、チーム亜久里はトップ走行中にマシントラブルが発生した影響でビリになり、罰ゲームとして亜久里は丸坊主になった。ちなみに、同年7月29日放送の第1戦フランスGP(実際は筑波サーキットで収録)でもチーム亜久里はビリとなり、サイドを刈られている。
  • その年の12月30日から翌日にかけて30時間放送されたTBSの番組テレビのちからにゲスト出演した。この出演は同番組のコーナー「スーパーキッズ21世紀夢チャレンジ」に登場した F1ドライバーになる事を夢見る天才カート少年 小林可夢偉 との対決の為であった。生ダラで丸坊主になった直後の亜久里は可夢偉に「今日は小学生と戦うって聞いたから、中学生になってきたよ」と自分の頭をなでながら洒落を利かせた言葉を放つ。カート対決では可夢偉に負けたが、可夢偉は子供ながらに亜久里が手を抜いていた事に気付いており、当時の心境や悔しさをF1ドライバーになった後にも語っている。レース終了後、亜久里は少年時代の可夢偉の力量を長所・短所を含めて的確に語っており、この出会いが後に可夢偉が「F1ドライバー」という夢を叶える原動力の一つとなった。
  • 亜久里の在籍していた埼玉県坂戸市の城西大学正門先の急カーブは通称「アグリコーナー」「アグリカーブ」などと呼ばれ、亜久里が200km/hでコーナリングしたという伝説がある。
  • 愛知県豊田市(旧 東加茂郡松平町、徳川家・松平家の祖先の地)にある高月院には、F1レーサー時代の書が残されている。そこには「いい人間だと思われているうちはダメなんだ」と書いてある。
  • 2007年4月29日腸閉塞の治療および精密検査のために都内の病院に入院した。5月6日に退院。
  • サマンサタバサジャパンリミテッドの株主であった。
  • 2010年6月24日 ばんせい山丸証券が活動資金など計約16億2,600万円の返済を求めた訴訟の判決で、24日に東京地裁より全額支払い命令を受けた[17]
  • 息子の瑞翔(みずは)の妻は、元テレビ東京アナウンサーフリーアナウンサー秋元玲奈[18]。息子の妻の姉は、フジテレビ元アナウンサーの秋元優里
  • 1992年にはスーパーファミコン用ゲームソフト「鈴木亜久里のF1スーパードライビング」、1993年には同タイトルのゲームボーイ版が発売されていた。

主な出演CM 編集

レース戦績 編集

全日本F3選手権 編集

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1979年 ラルト・RT1 トヨタ・2T-G SUZ FSW TSU FSW
13
SUZ NIS SUZ
7
17位 4
1980年 ハヤシ・カーズ ラルト・RT1 SUZ
4
TSU
12
FSW
7
NIS TSU
Ret
FSW SUZ SUZ 13位 14
1981年 マーチ・803 SUZ
5
TSU
6
FSW
15
NIS
3
SUG
C
TSU
11
NIS
DNS
SUZ SUZ
6
7位 32
1982年 ハヤシ・320 SUZ
2
FSW
2
NIS
2
SUZ
Ret
SUG
3
NIS
5
SUZ
4
TSU
3
SUZ
4
4位 92
1983年 ハヤシ・321 SUZ
1
NIS
1
SUG
Ret
SUZ
2
TSU
3
SUZ
2
SUZ
4
2位 62
1984年 セントラル20 マーチ・793 日産・FJ20 SUZ NIS FSW SUZ TSU SUZ
5
TSU
1
SUZ
Ret
7位 28
1985年 NISMO マーチ・793 (Rd.1-3)
ラルト・RT30 (Rd.4-7)
SUZ
1
FSW
3
SUZ
4
TSU
2
NIS
1
SUZ
20
SUZ
6
2位 77

全日本F2選手権,全日本F3000選手権 編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1985年 NCスピード SUZ FSW MIN SUZ SUZ FSW
DNS
SUZ
8
SUZ
10
16位 4
1986年 ムーンクラフト SUZ FSW MIN SUZ SUZ FSW SUZ SUZ
6
13位 6
1987年 Footwork Sports レーシングチーム SUZ
2
FSW
2
MIN
4
SUZ
3
SUZ
2
SUG
Ret
FSW
Ret
SUZ
1
SUZ
1
2位 107
1988年 SUZ
2
FSW
1
MIN
1
SUZ
1
SUG
Ret
FSW
2
SUZ
2
SUZ
Ret
1位 45

全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC) 編集

チーム コドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1983 パナスポーツ・ジャパン   本橋敏夫 MCS・グッピー/BMW Cjr SUZ SUZ FSW
Ret
1984 オートバックスレーシングチームwithウチダ   星野薫 童夢・RC-83i/フォード C1 SUZ TSU SUZ
Ret
FSW
DNS
1985 セントラル20   柳田春人 LM・04C/日産
ローラ・T810/日産
C1 SUZ
Ret
FSW
Ret
FSW
Ret
SUZ
Ret
FSW
8
FSW 33位 1.5
1986 パーソンズレーシーングチーム   松本恵二 マーチ・86G/日産  C1 SUZ FSW
5
FSW
12
SUZ
Ret
FSW
Ret
FSW
Ret
8
1987 ハセミモータースポーツ   長谷見昌弘 マーチ・86G/日産
マーチ・87G/日産 
C1 SUZ
8
FSW
Ret
FSW
Ret
SUZ
22
FSW
Ret
FSW
8
42位 6
1988 NISMO   長谷見昌弘 日産・R88C    C1 FSW
Ret
SUZ
8
FSW
8
FSW
3
SUZ
3
FSW
12
11位 30

世界耐久選手権,世界スポーツプロトタイプカー選手権 編集

所属チーム コドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1982年 トムス   舘信秀
  星野薫
トムス童夢・セリカC C MNZ SIL NÜR LMN SPA MUG FSW
5
BRH 55位 8
1983年 パナスポーツ・ジャパン   本橋敏夫 MCS・グッピー/BMW Cjr MNZ SIL NÜR LMN SPA FSW
Ret
KYA NC 0
1984年 オートバックスレーシンングチームwithウチダ   ルパート・キーガン 童夢・RC-83i/フォード C1 MNZ SIL LMN NÜR BRH MOS SPA IMO FSW
DNS
KYA SUN NC 0
1985年 セントラル20   柳田春人 ローラ・T810/日産 C1 MUG MNZ SIL LMN HOC MOS SPA BRH FSW
8
SHA 1.5
1986年 NISMO   星野一義
  松本恵二
日産・R86V C1 MNZ SIL LMN
Ret
NOR BRH JER NÜR SPA NC 0
パーソンズレーシングチーム   松本恵二 C1 FSW
Ret
1987年 NISMO   長谷見昌弘
  和田孝夫 (Rd.5)
日産・R87E C1 JAR JER MNZ SIL LMN
Ret
NOR BRH NÜR SPA FSW
Ret
NC 0
1988年   星野一義
  和田孝夫
  長谷見昌弘 (Rd.10)
日産・R88C C1 JER JAR MNZ SIL LMN
Ret
BRN BRH NÜR SPA FSW
12
SUN NC 0
1990年 Taka-Qトヨタ・トムス   ジョニー・ダンフリーズ
  ジェフ・リース (Rd.4)
トヨタ・90C-V Cat.2 SUZ
20
MNZ
Ret
SIL SPA
DNS
DIJ NÜR DON MTL MEX NC 0

マカオグランプリ 編集

チーム エンジン 周回 合計タイム LEG1 LEG2 総合順位
1985年  ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 日産 14 19 Ret NC

国際F3000選手権 編集

チーム シャシー エンジン タイヤ 車番 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1988年 フットワーク スポーツ マーチ・88B コスワース DFV A 23 JER VLL PAU
11
SIL
DNQ
MNZ PER NC 0
レイナード・88D BRH
Ret
BIR BUG ZOL DIJ

F1 編集

チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1988年 ローララルース LC88 BRA SMR MON MEX CAN DET FRA GBR GER HUN BEL ITA POR ESP JPN
16
AUS NC
(35位)
0
1989年 ザクスピード 891 BRA
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
DNPQ
MEX
DNPQ
USA
DNPQ
CAN
DNPQ
FRA
DNPQ
GBR
DNPQ
GER
DNPQ
HUN
DNPQ
BEL
DNPQ
ITA
DNPQ
POR
DNPQ
ESP
DNPQ
JPN
DNPQ
AUS
DNPQ
NC
(44位)
0
1990年 ローララルース LC89 USA
Ret
BRA
Ret
12位 6
LC90 SMR
Ret
MON
Ret
CAN
12
MEX
Ret
FRA
7
GBR
6
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
14
ESP
6
JPN
3
AUS
Ret
1991年 LC91 USA
6
BRA
DNS
SMR
Ret
MON
Ret
CAN
Ret
MEX
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
DNQ
ITA
DNQ
POR
Ret
ESP
DNQ
JPN
Ret
AUS
DNQ
22位 1
1992年 フットワーク (アロウズ) FA13 RSA
8
MEX
DNQ
BRA
Ret
ESP
7
SMR
10
MON
11
CAN
DNQ
FRA
Ret
GBR
12
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
9
ITA
Ret
POR
10
JPN
8
AUS
8
NC
(20位)
0
1993年 FA13B RSA
Ret
BRA
Ret
NC
(24位)
0
FA14 EUR
Ret
SMR
9
ESP
10
MON
Ret
CAN
13
FRA
12
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
JPN
Ret
AUS
7
1994年 ジョーダン 194 BRA PAC
Ret
SMR MON ESP CAN FRA GBR GER HUN BEL ITA POR EUR JPN AUS NC
(42位)
0
1995年 リジェ JS41 BRA
8
ARG
Ret
SMR
11
ESP MON CAN FRA GBR GER
6
HUN BEL ITA POR EUR PAC
Ret
JPN
DNS
AUS 17位 1

(key)

全日本ツーリングカー選手権(JTC) 編集

チーム コドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1985 NISMO   長谷見昌弘 日産・スカイラインRSターボ DIV.3 SUG
Ret
TSU NIS
2
SUZ
2
FSW
7
1986   和田孝夫 NIS
1
SUG
1
TSU
2
SEN
2
FSW
4
SUZ
1
1位
1987 ハセミモータースポーツ   長谷見昌弘 NIS
Ret
SEN
9
TSU
Ret
SUG
Ret
FSW
Ret
SUZ
2
1988 リコー NISMO   アンデルス・オロフソン 日産・スカイラインGTS-R JTC-1 SUZ
1
NIS
1
SEN TSU SUG
6
FSW
Ret

全日本ツーリングカー選手権(JTCC) 編集

チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
1994年 TOYOTA TEAM TOM's トヨタ・コロナ OAR1
9
OAR2
5
SUG1 SUG2 TOK1
3
TOK2
2
SUZ1
5
SUZ2
4
MIN1
Ret
MIN2
3
TAI1
2
TAI2
2
TSU1
3
TSU2
DNS
SEN1
3
SEN2
Ret
FSW1
5
FSW2
8
5位 102

全日本GT選手権 編集

チーム コドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1996年 ZEXEL NISMO   福山英朗 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
4
FSW
Ret
SEN
7
FSW
3
SUG
5
MIN
3
6位 42
1997年   エリック・コマス
  マルコ・アピチェラ (Rd.2)
GT500 SUZ
1
FSW
4
SEN
2
FSW
10
MIN
9
SUG
3
4位 60
1998年   影山正彦 GT500 SUZ
Ret
FSW
C
SEN
2
FSW
7
TRM
11
MIN
5
SUG
9
8位 29
1999年 ARTA ZEXEL NISMO   ミハエル・クルム
  アルミン・ハーネ (Rd.2)
GT500 SUZ
5
FSW
11
SUG
9
MIN
12
FSW
12
TAI
2
TRM
2
6位 40
2000年 Autobacs Racing Team Aguri   土屋圭市 ホンダ・NSX GT500 TRM
7
FSW
Ret
SUG
15
FSW
1
TAI
Ret
MIN
Ret
SUZ
DSQ
13位 24

ル・マン24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1986年   NISMO   星野一義
  松本恵二
日産・R86V C1 64 DNF DNF
1987年   長谷見昌弘
  和田孝夫
日産・R87E C1 117 DNF DNF
1988年   星野一義
  和田孝夫
日産・R88C C1 286 DNF DNF
1990年   Taka-Qトヨタ・トムス   ジョニー・ダンフリーズ
  ロベルト・ラヴァーリア
トヨタ・90C-V C1 64 DNF DNF
1996年   NISMO   影山正彦
  近藤真彦
日産 NISMO・GT-R LM GT1 209 DNF DNF
1997年   NISMO
  TWR
  リカルド・パトレーゼ
  エリック・ヴァン・デ・ポール
日産・R390 GT1 GT1 121 DNF DNF
1998年   星野一義
  影山正彦
GT1 347 3位 3位
1999年   NISMO   影山正美
  エリック・ヴァン・デ・ポール
日産・R391 LMP 0 DNS DNS

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 風貌が野球選手のジャッキー・ロビンソンに似ていることから。
  2. ^ 「クリちゃん」のモデルは根本進の長男で、2輪レーサーからオートバイ雑誌編集長になった根本健である。
  3. ^ マーチのワークス格であるオニクスチームは予選通過に失敗していた。
  4. ^ マシンは前年のドライバーであったアレックス・カフィに合わせたポジションであったといい、「カフィと自分とでは約20cm近く身長差があるんだ。」と亜久里自身がインタビューに答えていた。シーズン後半はアルボレートでさえ完走しても入賞はポルトガルでの1度のみ。彼は7位完走が多かった。
  5. ^ 中嶋悟が1988年のメキシコGPと日本GPで予選6番手を獲得していた。
  6. ^ 自分が契約したシートに自身の推す若手ドライバーを乗せて欲しいと要望するも交渉は難航。最終的にはトヨタが「今後、若手ドライバー育成に力を入れる」ことを確約し契約に至る。しかし結局トヨタは、その後数年間の間に若手ドライバー育成に着手・注力することはなく、「約束を守らなかったトヨタには二度と乗らないと決意した」と後に亜久里自身が語っている。
  7. ^ ちなみに3レースのオファーを亜久里に断られたエディ・ジョーダンは、その後の2戦に同じマールボロドライバーであったアンドレア・デ・チェザリスを起用している。またエディ・ジョーダンからはラルース時代にもオファーがあったが、オファー理由がスポンサーマネー目的だと知ると亜久里は「お金の無いチームは嫌だ」とオファーを断った。
  8. ^ 後にブランドルは「だからさ、半分の契約だってことを最初から説明してないから…」と、亜久里サイドへの明確な説明を怠ったチーム側の落ち度を指摘している。

出典 編集

  1. ^ a b 亜久里氏の父・正士さん死去 トーチュウF1 Express、東京新聞、2011.3.9
  2. ^ 『爆走!日本カーレーサー列伝』、株式会社洋泉社、2014年、130頁。
  3. ^ 初陣の向こうにグランプリは見えたか The Next One 鈴木亜久里 グランプリ・エクスプレス 1988メキシコGP号 12-13頁 1988年6月18日発行
  4. ^ 富士インターテックへの出場が決定済であった。
  5. ^ 「日本人F1ドライバー鈴鹿激闘史」ネコ・パブリッシング 2014年 P.39
  6. ^ a b 『F1速報PLUS』Vol.14、イデア、2010年、63頁。
  7. ^ 『GP Car Story vol.9 ローラ・LC90』、三栄書房、34頁。
  8. ^ 山口正巳 編『GPX F1GP '91-'92』山海堂、1991年12月25日、p.80頁。ISBN 4-381-07648-6 
  9. ^ a b c Alan Henry, ed (1991) (英語). Autocourse 1991-92. Hazleton Publishing. pp. p.101. ISBN 0-905138-87-2 
  10. ^ “「スーパーアグリ」が復活!フォーミュラEに参戦へ”. AutoSports Web. (2013年11月1日). https://www.as-web.jp/past/%e3%80%8c%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%82%a2%e3%82%b0%e3%83%aa%e3%80%8d%e3%81%8c%e5%be%a9%e6%b4%bb%ef%bc%81%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%83%9f%e3%83%a5%e3%83%a9e%e3%81%ab%e5%8f%82%e6%88%a6 2014年9月15日閲覧。 
  11. ^ “フォーミュラE:スーパーアグリ、“アムリン・アグリ”に改名”. F1-Gate.com. (2014年6月28日). http://f1-gate.com/superaguri/amlin_24202.html 2014年9月15日閲覧。 
  12. ^ レーススチュワードとして関わった鈴木亜久里氏。公道でのフォーミュラE東京大会の意義と今後の可能性 - オートスポーツ・2024年4月1日
  13. ^ おぎやはぎの愛車遍歴[信頼性要検証]
  14. ^ AGURI in ESTORIL ドン底から這い上がれ! ’90挑戦 GPX '90カレンダー号 2-3頁 1989年12月29日発行
  15. ^ F1速報 右京の部屋「鈴木亜久里登場」
  16. ^ a b 日本人ドライバー8人の証言 日本のレースとF1の違い Sports Graphic Number PLUS March.2000 20世紀スポーツ最強伝説⑥「F1 未知への疾走」131頁 文芸春秋 2000年3月15日発行
  17. ^ “鈴木亜久里氏が敗訴=F1資金17億円返済命じる-東京地裁”. 時事通信. (2010年6月24日). http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010062401116 2010年6月24日閲覧。 [リンク切れ]
  18. ^ テレ東・秋元玲奈アナ、第1子妊娠!おじいちゃんは鈴木亜久里氏

関連項目 編集

外部リンク 編集

タイトル
先代
星野一義
全日本F3000選手権
1988年
次代
小河等