長浜城 (近江国)

滋賀県長浜市にあった城

長浜城(ながはまじょう)は、滋賀県長浜市公園町豊公園内にあった日本の城。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した。

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長浜城
滋賀県
模擬天守(長浜城歴史博物館)
模擬天守(長浜城歴史博物館)
別名 今浜城
城郭構造 平城
天守構造 不明
独立式望楼型3重5階(鉄筋コンクリート造模擬、昭和58年1983年
築城主 羽柴秀吉
築城年 天正元年、1573年
主な改修者 伊部町組(現在の元浜町)
大工 藤岡一門  
主な城主 羽柴氏、柴田氏
山内氏(一豊系)、内藤氏(信成系)
廃城年 慶長20年、1615年
遺構 石垣、堀
指定文化財 市指定史跡[1]
再建造物 模擬天守
位置 北緯35度22分39.65秒 東経136度15分40.87秒 / 北緯35.3776806度 東経136.2613528度 / 35.3776806; 136.2613528座標: 北緯35度22分39.65秒 東経136度15分40.87秒 / 北緯35.3776806度 東経136.2613528度 / 35.3776806; 136.2613528地図
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長浜城歴史博物館
施設情報
正式名称 長浜市長浜城歴史博物館[2]
事業主体 長浜市
管理運営 長浜市教育委員会
所在地 滋賀県長浜市公園町10-10
プロジェクト:GLAM
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沿革 編集

1573年天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。その後宝厳寺に対しては1598年に死去した豊臣秀吉の遺命として、大坂城の唐門などが移築されている。

同天正年間の3年4年頃に完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。現在でも城下町には羽柴氏当時の面影や名残が残る。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所とされている。

1581(天正9年)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏[3]のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政を長浜城主に任じた。

1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智光秀の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領した。羽柴氏の妻ら係累は近隣の寺に逃れた。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加するが、明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された。長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。

1586年(天正13年)の天正地震により城が全壊し、城主山内一豊の息女が死亡した。この地震による側方流動で城の一部が琵琶湖に水没し、現在の長浜城遺跡・西浜千軒遺跡となったみられている[4]。(琵琶湖湖底遺跡

1606年慶長11年)に内藤信成信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

現在の天守1983年犬山城伏見城をモデルにした復興天守で、市立長浜城歴史博物館として運営されている。

伝説 編集

人柱「おかね」
天正2年の築城工事の際、長浜一の美女と評判だった女性「おかね」が人柱に選ばれて埋められ、天守北側にあった堀が「おかね堀」と呼ばれるようになった。天守閣跡にはこの話を伝える石碑が建てられている。
人柱「おきく」
秀吉から築城の命令を受けた京極氏の武士が人柱を探していたところ、漁師に出会ったので、人柱の事を伏せて「この辺りに娘はいないか」と尋ねた。漁師は「自分に娘が2人いる」と答えたところ、一人を人柱として差し出すように頼まれた。悩んだ漁師は2人の娘の内、盲目の妹「しのぶ」を人柱にするよう申し出たが、これを知った姉の「おきく」が妹を庇って自ら志願して人柱となった。天守閣跡側には「おきく」を祀ったといわれる祠がある。

ギャラリー 編集

周辺 編集

 
天守5階より左奥:伊吹山、手前:豊公園(日本さくら名所100選)、右:琵琶湖

脚注 編集

  1. ^ 長浜市所在指定文化財一覧”. 長浜市. 2013年3月21日閲覧。
  2. ^ 長浜市長浜城歴史博物館条例
  3. ^ 軍事的拠点機能を前線に近い播磨国姫路城などに移していた。
  4. ^ 中川永, 大西遼「西浜千軒遺跡の測量成果と地形形成に関する基礎的考察 : 琵琶湖湖底遺跡の調査」『人間文化 : 滋賀県立大学人間文化学部研究報告』第39巻、滋賀県立大学人間文化学部、2015年10月、48-57頁、CRID 1390009224812764032doi:10.24795/nb039_048-057 

関連項目 編集

外部リンク 編集