阿寺城

岐阜県中津川市にあった砦

阿寺城(明照城 / あでらじょう / あてらじょう)は、岐阜県中津川市手賀野にあった日本の城)。

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阿寺城
岐阜県
別名 明照城(あてらじょう)、阿照羅城、阿手羅城
斧戸城、中津川砦
城郭構造 山城
天守構造 不明
築城主 遠山直廉
築城年 不明
主な城主 明照遠山氏
廃城年 天正2年(1574年
遺構 本曲輪、虎口
指定文化財 なし
位置 北緯35度27分52.7秒 東経137度30分15.2秒 / 北緯35.464639度 東経137.504222度 / 35.464639; 137.504222座標: 北緯35度27分52.7秒 東経137度30分15.2秒 / 北緯35.464639度 東経137.504222度 / 35.464639; 137.504222
地図
阿寺城の位置(岐阜県内)
阿寺城
阿寺城
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概要 編集

美濃国岩村城主の遠山景前が、弘治2年(1557年)7月に病没して後継者争いが起こると、武田晴信の後押しで、長男の景任岩村遠山氏の当主となって岩村城主となり、次男の遠山武景苗木遠山氏の養子となり、三男の遠山直廉が手賀野村に阿寺城を築いて明照遠山氏の初代となった。

しかし、次男の武景が京都旅行の帰途、伊勢から尾張へ渡る舟に乗船中に盗賊に襲われ殺害されたため、直廉が苗木遠山氏を嗣ぐこととなり、高森山砦を拡張し苗木城へ移った。

永禄12年(1569年)、直廉は信玄の命により飛騨国益田郡に侵攻し、三木氏との大威徳寺の戦いで受けた矢傷がもとで、苗木城へ戻った後に没した。

直廉には男子がなく苗木遠山氏は再び断えたので、信長は苗木城を飯羽間遠山氏遠山友勝に継がせた。

そして遠山友忠飯羽間城から阿寺城へ移ったが、苗木城を守っていた父の友勝が没したため、子の遠山友重に阿寺城を譲り苗木城に移った。

天正2年(1574年)甲斐武田氏の命により木曽義昌からの攻撃で友重は討死を遂げ、阿寺城も陥落しその後、復興することはなかった。

阿寺城は、直廉-友忠-友重の三人の城主で、築城後、僅か三十年足らずで廃城となった。

なお恵那市上矢作町漆原に阿寺砦があったので注意が必要である。

遺構 編集

現在の本曲輪には御嶽神社が祀られている。それより市街地側に進んだところに二ノ曲輪、三ノ曲輪、虎口、また背後には保古山からの侵入を防ぐための三重堀切が見られる。

関連項目 編集

外部リンク 編集