阿部勇樹

日本のサッカー選手

阿部 勇樹(あべ ゆうき、1981年9月6日 - )は、千葉県市川市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションミッドフィールダーディフェンダー。元日本代表

阿部 勇樹
レスター・シティFC時代(2011年)
名前
愛称 アベちゃん
カタカナ アベ ユウキ
ラテン文字 ABE Yuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1981-09-06) 1981年9月6日(42歳)
出身地 千葉県市川市
身長 178cm
体重 77kg
選手情報
ポジション MF / DF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1998-2006 日本の旗 ジェフユナイテッド市原・千葉 214 (36)
2007-2010 日本の旗 浦和レッズ 120 (14)
2010-2012 イングランドの旗 レスター・シティFC 52 (2)
2012-2021 日本の旗 浦和レッズ 256 (25)
通算 642 (77)
代表歴
2000 日本の旗 日本U-20 2 (2)
2002-2004 日本の旗 日本U-23 13 (3)
2005-2011[1] 日本の旗 日本 53 (3)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

守備的ポジションであればどこでもプレーできるユーティリティープレイヤー2010 FIFAワールドカップ日本代表でアンカーとして活躍した。

来歴 編集

プロ入り前 編集

1981年、2男1女の第3子として出生。兄の影響で幼少の頃からサッカーに親しみ、休日で寝ている父親の枕を蹴り飛ばして起床させ父兄共にボールを蹴り合って遊んでいた。父親の感情豊かな感激屋の影響を受け、(5歳上の)兄からボールが取れないといっては泣き、試合内容が悪かったといっては涙し、勝利に貢献して褒められては目に涙を浮かべている何かと涙もろい子だった。

通っていた幼稚園の縁と父の勧めで柏イーグルス入団。小学4年生時に富美浜FCへ加入、小学5年生時、市川FCの選抜、2チームを掛け持ちする。小学校6年生時、ジェフユナイテッド市原のユースセレクションに合格する。

市立船橋高校からの誘いもあったが、本人は大半の時間をジェフ市原ユースでのサッカーに注ごうとすべく通信制の高校に進学を希望するも、両親が反対した上に姉が激怒。高校進学に向けて塾に入れられ、受験勉強を猛スピードで行い、一般入試で東京学館浦安高校普通科に進学。

選手時代 編集

ジェフユナイテッド市原・千葉 編集

Jリーグ初出場は、1998年8月5日、Jリーグ1stステージ第16節のガンバ大阪戦(万博記念競技場)。当時のチームメイトの山口智の記録を破り、16歳と333日というJ1の最年少記録を打ち立てた[2]1999年には高校3年生ながらJ1で30試合に出場し、4月10日 1stステージ第6節神戸戦(神戸総合運動公園ユニバー記念競技場)でJリーグ初得点を挙げた。

2000年佐藤勇人佐藤寿人とともにトップチームに昇格[3]2003年イビチャ・オシムが新監督に就任すると、オシムは当時既に国際経験や実力を備えながらも前面に出ようとしていなかった阿部を21歳でキャプテンに抜擢。オシム就任当時、ベテラン選手のプレーに頼り切っている後輩という当時のチーム事情を憂慮、プレーも消極的で性格も大人しいがチーム内では人当たりの良い阿部を先輩後輩の垣根を取り除く役目も(本人には黙って)与える。後にジェフは看板選手を次々と放出、当時は監督の命令でキャプテンを務めるのが嫌で仕方なかったが試合を重ねるごとに阿部はキャプテンとしての頭角を現すことになる。

この起用は周囲に譲りがちだったFKを自ら蹴り、積極的に攻撃に参加するといった成長をもたらす。2005年のJリーグ戦では守備的MFながら12得点(うち1回はハットトリック)を挙げ、常にJ2降格ラインにいたチームを2005年2006年ナビスコ杯2連覇に導いた立役者の1人になった。後にイビチャ・オシム監督との出会いによって、戦う姿勢が変わったことと、複数のポジションをこなせることを「ポリバレント」と称され、それが自分の強みと自覚できるようになったと語っている。

浦和レッズ 編集

2007年1月12日、ジュニアユース時代から在籍した千葉から浦和レッズへの移籍を発表[4]。国内最高額といわれる移籍金(推定3億5千万円)で1月22日に正式契約を結ぶ[5][6][7]2010年、浦和との3年契約が満了したため、海外移籍の噂もあったが1月31日、浦和と1年間契約延長をすることで合意[8]

千葉在籍時の2005年2006年、浦和在籍時の2007年と3年連続でJリーグベストイレブンに選出。サポーターからの人気も高く、2003年~2007年までJリーグオールスターサッカーに5年連続でサポーター投票で選出され、特に、2004年と2005年は最高得票数を獲得。2008年からJOMO CUPに替わっても、メンバーに選ばれ続けていた。

FIFAクラブワールドカップ2007では、浦和からただ1人、大会のMVP候補8人の1人に選ばれた(受賞はブラジル代表でもあるACミランカカ)。2010年7月、彩の国功労賞を受賞。また、市川市が市民栄誉賞を授与すると発表した[9]

レスター・シティ 編集

2010年W杯終了後、オランダ・エールディビジフェイエノールトVVVフェンローから高い関心を示されており、阿部の関係者もオランダリーグへの移籍が近づいているとコメントするなどオランダ移籍が有力視されていたが、移籍期限の直前にイングランド2部・フットボールリーグ・チャンピオンシップレスター・シティFCが3年契約での正式オファーを出し、基本合意。最大の障害だった就労ビザの問題も解決し、2010年8月31日に移籍が正式に決定した[10][11]。レスターシティでの初得点は、2011年5月7日 チャンピオンシップ最終節イプスウィッチ・タウンFC戦(ウォーカーズ・スタジアム)。2012年1月22日、日本に残していた家族を最優先したいとの理由でチームと双方合意の上で契約を解除した。

浦和レッズ復帰 編集

2012年、1月24日に浦和に復帰。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督からチームキャプテンに指名された。2012年ではボランチとして全試合出場。退場となったJ1第4節川崎フロンターレ戦を除いてフル出場を果たした。チームも3位となり、ACLの出場権を獲得した。なお、阿部はJリーグ優秀選手賞も受賞した。2013年、J1第33節が11月30日に行われ、J1通算400試合出場を達成した。400試合出場は史上13人目。

2016年、4月16日に行われた1stステージ第7節の仙台戦において、史上12人目(GKを除くと3人目[12])となるリーグ戦100試合連続フル出場を達成した[13]。10月1日、2ndステージ第14節のガンバ大阪戦でJ1通算500試合出場を達成した。奇しくもこの試合はデビュー戦と同一カードとなり、勝利し自身の記録達成に花を添えた。 また遠藤保仁を抜き史上最年少での500試合出場を達成、山田暢久に続く記録達成は同一クラブ二人目では史上初、海外移籍経験者の記録達成も史上初、下部組織出身選手の記録達成も史上初と記録づくめとなった。同試合で後半9分に遠藤からボールを奪取後倒された瞬間背中を右足で蹴られあまりの痛さにピッチ上でのたうち回ったがその後も試合終了までプレーし、次のJリーグカップ準決勝第1戦FC東京戦もフル出場したが試合終了後メディカルチェックを受けると右肋骨を骨折している事が発覚した。決勝ガンバ大阪戦では強行出場し浦和レッズ移籍後初の国内タイトルを手にした。ジュビロ磐田戦で山田暢久の出場記録を抜く通算502試合を達成した。

2017年5月14日、第11節のアルビレックス新潟戦で先発フル出場を果たし、当時J1最多となる「138」試合連続フル出場を果たした。

2018年8月11日、第21節のサガン鳥栖戦で途中出場し、史上4人目かつ史上最年少でのJ1通算550試合出場を果たした。

2021年、2017年以来2度目のチームキャプテンに就任した。開幕戦のFC東京戦でスタメン出場しゴールを決めた。11月14日、2021年シーズンをもってプロサッカー選手を引退することを正式に発表した[14][15]

日本代表 編集

ジュニアユース時代から各年代別で日本代表に選出されてきた。小野伸二稲本潤一高原直泰といった、いわゆる黄金世代が準優勝した1999 FIFAワールドユース選手権では、フィリップ・トルシエ監督の下、一つ下の世代から代表選出されたが、感染病の予防接種の問題で参加できなかった[16][17]

アテネオリンピックを目指す山本昌邦監督率いる五輪代表チームにも選ばれ、2002年アジア競技大会では青木剛の負傷により主にスイーパーを担当。決勝では青木の復帰に伴い本職のボランチに移るが敗戦し、準優勝に終わる。 ダブルセントラルで行なわれたアテネ五輪アジア予選では負傷明けにより、後半戦の日本ラウンドに万全の状態で合流するために前半戦のUAEラウンドを回避、日本ラウンド初戦で田中マルクス闘莉王が負傷退場すると、それからスイーパーを務める。レバノン戦でFKを直接決めるなど予選突破に貢献。 2004年の本大会にも松井大輔大久保嘉人駒野友一森崎浩司らと共に出場。本職だったボランチから右サイドバックやリベロに起用され、またキャプテンだった那須大亮がベンチになるとゲームキャプテンも務めたが、グループリーグで敗退。

A代表にはジーコ代表監督により2003年東アジアサッカー選手権で初選出、2005年1月29日のカザフスタンとの親善試合(横浜国際競技場)でA代表初出場を果たした[1]。A代表初ゴールは2006年8月16日のアジアカップ予選、イエメン[1]2006 FIFAワールドカップではメンバーから漏れるが、代表監督がイビチャ・オシムに変わるとAFCアジアカップ2007をはじめ主にセンターバックとして出場。

岡田武史代表監督の下でも代表に選出され、2010年5月10日、2010 FIFAワールドカップで初選出[18]。それまでCBで起用され、巧く機能しないことが多かったが、W杯本戦では終始アンカーとして全試合にスタメン出場。決勝トーナメント1回戦パラグアイ戦で中村憲剛と途中交代するまでフル出場を続けた。堅固な守備陣の一角として日本のグループリーグ突破に貢献し、元日本代表MF中田英寿や、元日本代表SB内田篤人からは日本代表のMVPに挙げられた[19][20]

指導者時代 編集

引退前 編集

選手時代にJFA公認B級コーチライセンスを取得[21]。現役引退にあたり、選手時代に指導を受けたイビチャ・オシム、ミハイロ・ペトロヴィッチの両氏に負けない指導者になれるように頑張っていきたいと指導者の道へ進むことを明らかにした[14]

引退後 編集

2022年シーズンより浦和レッズユースのコーチに就任[22]。浦和レッズの新体制が発表された2022年1月12日、ユースチームのコーチに就任する事が発表された。直後に更新された自身のTwitterでも「2022年、阿部は浦和レッズユースのコーチとして指導者の道をスタートします!」とツイートし、指導者として第2のキャリアを始めた事を明らかにした。

また3月には日本サッカー協会(JFA)のロールモデルコーチに就任し、アンダー世代の日本代表チームをはじめ若年層を対象とした強化および普及に携わる。2022年3月16日、日本サッカー協会は阿部とロールモデルコーチとして契約したことを発表した[23]

2022年11月12日に埼玉スタジアムにて、引退試合を開催。元浦和レッズの選手を中心とした「URAWA ASIAN KINGS」と、元ジェフ千葉と元日本代表の選手を中心としたチーム「JEF・JAPAN FRIENDS」の対戦となり、阿部は両チームに参加した[24]。その1週間後の2022年11月20日に開催された、イビチャ・オシムの追悼試合に「OSIM JEF LEGEND」チームの一員として参加した[25]

評価 編集

評論家の後藤健生は阿部について、ディフェンダーとして、所属クラブでも日本代表でも起用され結果を残している事を認めつつ、「彼はやはり本来はMF[26] だという見方を示している。

エピソード 編集

  • 2001年5月、右脛骨疲労骨折による髄内釘固定術を受け、8月復帰。本人談「ボクの右足にはチタンが入っている」。
  • テレビ朝日の『やべっちFC』に出演した際、「YABEっち」の「Y」を取ると「ABEっち」になるとアピール、これから「あべっちと呼んでください」と笑いを誘った。
  • 市原時代から守備能力に加えて精度の高いFKも武器としていたため和製ベッカムと呼ばれたり、「アベッカム」ともじられることもあった。しかし、オシム就任後はセットプレーでの競り合いに強さにも定評があったため受け手側に回り、代わりに水野晃樹が蹴ることが多くなった。浦和移籍後もポンテ柏木陽介、日本代表でも中村俊輔遠藤保仁等が蹴ることが多かったためにFK、CKを蹴る機会は少なくなっていたが、2016年7月9日の柏レイソル戦で直接フリーキックによるゴールを挙げ、そのゴールを伊メディア「トゥットスポルト」が阿部を「日本のピルロ」として動画付きで紹介した[27]
  • JリーグNo. 1のPKの名手としても知られており、リーグ戦20本以上蹴った上で成功率は100%となっている[28]
  • 3人兄姉の末っ子。実姉は八雲学園中学校・高等学校バスケットボール部の現職アシスタントコーチ。2009年に同校がウィンターカップに初出場を果たした際には激励に訪れ、選手一人一人のシューズにサインした[29]
  • 2004年7月7日入籍。2007年7月19日、第一子となる長男が誕生。
  • 2020年5月、コロナ感染予防の一環としてさいたま市の防災無線で呼びかけを行う。
  • 2021シーズン開幕戦に出場し、J1通算23年プレーとなり歴代最多記録となった[30]

選手経歴 編集

指導者経歴 編集

  • 2022年 - 浦和レッズ
    • 2022年 - ユースコーチ
  • 2022年 - 日本代表
    • 2022年 - ロールモデルコーチ

個人成績 編集

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1997 市原 30 J 0 0 0 0 0 0 0 0
1998 31 1 0 0 0 0 0 1 0
1999 29 J1 30 1 2 0 1 0 33 1
2000 8 25 0 3 0 3 2 31 2
2001 6 17 3 2 0 2 0 21 3
2002 24 1 3 0 2 0 29 1
2003 27 3 3 0 4 0 34 3
2004 24 5 5 1 1 0 30 6
2005 千葉 33 12 10 5 1 0 44 17
2006 33 11 8 2 1 0 42 13
2007 浦和 22 33 3 0 0 1 0 34 3
2008 33 6 1 0 1 0 35 6
2009 34 2 4 0 0 0 38 2
2010 20 3 2 1 - 22 4
イングランド リーグ戦 FLカップFAカップ 期間通算
2010-11 レスター 22 FLC 36 1 2 0 2 0 40 1
2011-12 16 1 2 0 1 0 19 1
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2012 浦和 22 J1 34 4 4 0 3 0 41 4
2013 33 6 5 0 0 0 38 6
2014 34 4 7 1 1 1 42 6
2015 34 3 2 2 4 1 40 6
2016 34 1 4 1 1 0 39 2
2017 33 3 1 0 0 0 34 3
2018 27 1 5 0 5 0 37 1
2019 11 0 1 0 3 0 16 0
2020 3 0 0 0 - 3 0
2021 13 3 6 0 1 0 20 3
通算 日本 J1 590 75 78 13 35 4 703 92
イングランド FLC 52 2 4 0 3 0 59 2
総通算 642 77 82 13 38 4 762 94
  • 1998年と1999年はユース所属

その他の公式戦

  • 2007年
  • 2015年
  • 2016年
    • Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
  • 2017年
    • スーパーカップ 1試合0得点
  • 2019年
    • スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績 FIFA
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
AFCACLクラブW杯
2007 浦和 22 12 3 3 0
2008 4 0 -
2013 6 1 -
2015 5 0 -
2016 6 0 -
2017 11 0 2 0
2019 6 0 -
通算 AFC 50 4 5 0

その他の国際公式戦

タイトル 編集

チーム 編集

ジェフユナイテッド千葉
浦和レッズ

個人 編集

日本代表歴 編集

出場大会 編集

試合数 編集

  • 国際Aマッチ 53試合 3得点 (2005年 - 2011年)[1]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2005 5 0
2006 8 1
2007 11 1
2008 9 0
2009 8 1
2010 9 0
2011 3 0
通算 53 3

ゴール 編集

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2006年8月16日 日本新潟市   イエメン ○2-0 AFCアジアカップ2007 (予選)
2. 2007年7月25日 ベトナムハノイ   サウジアラビア ●2-3 AFCアジアカップ2007準決勝
3. 2009年5月27日 日本大阪市   チリ ○4-0 キリンカップ

書籍 編集

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d “阿部 勇樹”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_a/yuki_abe.html 
  2. ^ このJリーグ記録は2002年FC東京呉章銀によって破られるまで保持。Jリーグ最年少日本人選手に限定すれば2003年サンフレッチェ広島髙萩洋次郎に、J1最年少日本人選手に限定すれば2004年東京ヴェルディ1969森本貴幸に破られるまで記録を保持
  3. ^ ジェフユナイテッド市原・千葉(公式) [@jef_united] (2020年4月28日). "✨ジェフクイズ1️⃣8️⃣解答✨". X(旧Twitter)より2022年9月8日閲覧
  4. ^ 阿部勇樹選手の移籍について』(プレスリリース)ジェフユナイテッド市原・千葉、2007年1月12日https://archive.jefunited.co.jp/news/2007/01/top/11694564008970.html2022年9月8日閲覧 
  5. ^ 移籍理由は「レッズは(2006年Jリーグ優勝、及び2007年天皇杯優勝により)ACLに2年連続で出場することが確定している。海外の強いクラブと対戦し、自分自身を高めていける環境を、浦和レッズは備えていた」とインタビューで話している
  6. ^ 移籍が決定後、浦和側が阿部に対して、筆頭株主である三菱自動車製の車に乗り換えなくても良いと認めていたのだが、気持ちを一新させたいという阿部本人の意向で、千葉時代から所有する愛車ベンツを売却して三菱製のパジェロに乗り換えた。(http://www.nikkansports.com/soccer/p-sc-tp0-20070127-147703.html 浦和阿部、愛車も三菱に変更(日刊スポーツ))[リンク切れ]
  7. ^ History 2007”. 阿部勇樹引退特設サイト. 2022年7月31日閲覧。
  8. ^ 阿部の全力プレーがレッズに“勇気”を与える|浦和レッドダイヤモンズ公式サイト
  9. ^ 朝日新聞2010年7月8日付 31面 ちば東葛欄 読売新聞2010年7月8日付 29面 東葛欄
  10. ^ 阿部勇樹、イングランドへ|浦和レッドダイヤモンズ公式サイト[リンク切れ]
  11. ^ Foxes Swoop For Abe” (英語). レスター・シティFC公式. Leicester City (2010年9月3日). 2012年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月1日閲覧。
  12. ^ 過去の2人は服部公太水本裕貴
  13. ^ 記録開始は2013年5月11日のJ1第11節鹿島アントラーズ戦から
  14. ^ a b 星野浩司 (2021年11月15日). “浦和・阿部勇樹「幸せなサッカー人生」 引退後は指導者の道へ”. スポーツ報知. https://hochi.news/articles/20211114-OHT1T51191.html?page=1 2022年9月8日閲覧。 
  15. ^ 浦和 引退した阿部勇樹の「足跡」に迫るドキュメンタリー映像24日午後6時から配信” (2021年12月24日). 2022年8月30日閲覧。
  16. ^ 選出が間際だったため、渡航に必要な予防接種が間に合わず、直前で参加を見送った。同様の理由で池田学(浦和)、林丈統(市原)も参加が見送られた)。
  17. ^ 「まだまだ谷間の世代は終わらない」阿部勇樹38歳、笑顔で語れる理由。”. Number Web (2019年10月10日). 2022年1月4日閲覧。
  18. ^ 前回は落選…阿部、4年分の思いをぶつける
  19. ^ [1] 文藝春秋 2010年8月号
  20. ^ [2] デイリースポーツ 2010年6月29日
  21. ^ 佐藤俊 (2017年2月18日). “阿部勇樹「すべてはレッズのため。レッズでサッカー人生を終わらせたい」”. web Sportiva. https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2017/02/18/___split_24/index_5.php 2022年9月8日閲覧。 
  22. ^ アカデミーセンター 2022年指導体制のお知らせ』(プレスリリース)浦和レッドダイヤモンズ、2022年1月12日https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/182224/2022年9月8日閲覧 
  23. ^ ロールモデルコーチとして阿部勇樹氏と契約 日本サッカー協会公式サイト 2022年03月16日
  24. ^ 阿部勇樹引退試合特設サイト”. 浦和レッドダイヤモンズ. 2022年11月20日閲覧。
  25. ^ 11月20日(日)オシム元監督追悼試合 ありがとう イビチャ・オシム ジェフユナイテッド市原・千葉 公式ウェブサイト”. ジェフユナイテッド市原・千葉. 2022年11月20日閲覧。
  26. ^ 後藤健生コラム アンカーとしてフル出場の阿部勇樹に「おめでとう」新システムが機能したイングランド戦 J SPORTS 2010.5.31付
  27. ^ 「日本に新しいピルロが存在!」…伊紙、浦和MF阿部の芸術的FKを大絶賛 サッカーキング
  28. ^ J1通算PK得点で単独トップの遠藤保仁をしのぐ“百発百中”の男は? LEGENDS STADIUM
  29. ^ “阿部靴”で八雲学園が快勝/高校バスケ
  30. ^ 浦和の39歳MF阿部が開幕先発、J1出場23季目は歴代最多記録!新人MF伊藤敦も先発
  31. ^ 受賞時は24歳2ヵ月程であったが、受賞条件が大会開幕時点で満23歳以下の選手であったため、受賞の対象となった。

外部リンク 編集