青木 葵園(あおき きえん)は、江戸時代中期の儒学者徳山藩士。。家格は馬廻、禄高は50石。徳山藩学の基礎を築いた人物の一人。

 
青木葵園
時代 江戸時代中期
生誕 延享4年(1747年
死没 安永7年7月2日1778年7月25日
改名 青木節
別名 通称:源蔵
:和卿、:葵園
墓所 教運寺東京都港区南青山
主君 毛利広寛就馴
周防徳山藩
氏族 長沼氏青木氏
父母 父:長沼忠清、母:三木孝春の娘
養父:青木忠栄
兄弟 長沼貞直葵園長沼采石
正室:増野良行の妹
養子:江村忠清の次男)
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生涯 編集

延享4年(1747年)、徳山藩士・長沼忠清の五男として生まれ、宝暦8年(1758年)3月に青木忠栄の後を継ぐ。

当時、徳山藩の学問は発展途上であり、学問の士も少なかった。そこで葵園は学問に志を立て、書を求めては読み漁り、十余歳で既に筆を執っては右に出る者がいない程であったという。

初め徳山藩の儒学者国富鳳山に師事した後、江戸に勤めた際にはに塾を開いていた萩藩の儒学者・滝鶴台から古文辞学(徂徠学)を学んだ。また、九州遊学し、福岡藩亀井南冥らと親しく交わり、その才能を賞されたが、この頃の古文辞学は未だ一般には広まっておらず、葵園が古文辞学を修めることを批判する者もいた。しかし、葵園は古書に学ぶ事の重要さを主張し、文字、点画、意義の如何なる些細な疑義も疎かにせず、究明に努めた。

宝暦12年(1762年9月19日に師の国富鳳山が死去すると、本城紫巌役藍泉をはじめとした鳳山の門弟達は鳳山の死を悲しみ、葵園は「西天明月没し、南海夜珠沈む、人は遺編を抱いて哭し、恨は旧感を兼ねて深し」と賦した。

徳山藩では藩校鳴鳳館の助教を務めた後に目付役へ転じ、藩政にも参与。安永6年(1777年)から江戸に勤めたが、翌年の安永7年(1778年)6月に病にかかり、同年7月2日に死去。享年32。遺体は江戸麻布教運寺に葬られたが、遺髪は徳山八正寺に埋葬された。その際、亀井南冥が碑文を撰した石碑が建てられた。なお、葵園の遺著には『葵園遺稿』がある。

参考文献 編集