青木薫 (細菌学者)

日本の細菌学者

青木 薫(あおき かおる、1877年(明治10年)1月16日 - 1938年(昭和13年)10月11日)は、日本細菌学者東北帝国大学名誉教授医学博士

青木 薫
生誕 外山 薫
1877年(明治10年)1月16日[1]
東京府東京[1]
死没 1938年(昭和13年)10月11日[2]
宮城県仙台市[2]
肺気腫[2]
研究分野 細菌学
研究機関 東北帝国大学
出身校 東京帝国大学
主な業績 パラチフスの研究[3]
プロジェクト:人物伝
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遺伝学者外山亀太郎は実兄[4]

生い立ち 編集

1906年10月に東京府南多摩郡堺村(現・町田市相原町)の医師・青木純造[5]の婿養子となった[6]。妻チヨとの間に、廉(きよし)、茂、健、宏を儲けた[7]

業績 編集

1924年(大正13年)に日本各地で嗜眠性脳炎の流行が起きた際に、病原体としてスピロヘータを発見したとして世を賑わしたものの、まもなくその主張を取り下げるということがあった[8]。嗜眠性脳炎はウイルス性の疾患だと考えられているが、現在も病原体は不明である。

略歴 編集

  • 1905年(明治38年)12月25日 - 東京帝国大学医科大学卒業[1]
  • 1906年(明治39年)1月 - 副手として三浦内科に勤務[6]
  • 1907年(明治40年)7月 - ストラスブール大学(当時ドイツ帝国領)衛生学細菌学教室に私費留学(1913年7月まで)[6]
  • 1914年(大正3年)2月 - 農商務省原蚕種製造所嘱託[6]
  • 1915年(大正4年)
    • 1月 - 東北帝国大学医学専門部講師[3]
    • 7月14日 - 東北帝国大学医科大学教授(細菌学)[1]
  • 1916年(大正5年)4月22日 - 医学博士(東京帝国大学)
  • 1938年(昭和13年)3月31日 - 依願退官[3][1]

出典 編集

  1. ^ a b c d e 免疫学分野=旧細菌学教室の歴史”. 東北大学大学院医学系研究科免疫学分野. 2020年1月5日閲覧。
  2. ^ a b c 「青木薫博士」『朝日新聞』、1938年10月13日、朝刊11面。
  3. ^ a b c 青木薫東北帝国大学名誉教授ノ名称ヲ授クルノ件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  4. ^ 「薄給から一万円を貯金した五十四歳の処女」『読売新聞』、1922年10月21日、朝刊4面。「長兄は誰あらう遺伝と蚕の研究で有名だった農学博士の故外山亀太郎さん、それからもと子さんの直ぐの弟さんは現に東北大学教授の青木薫博士です。」
  5. ^ 青木家は相原の名主の家柄で一族に青木正太郎がいる。得庵、芳斎、純造と入り婿で医師を生業としていた。
  6. ^ a b c d 『大日本博士録』 2巻、発展社、1922年、239-240頁。NDLJP:1749894/307 
  7. ^ 『人事興信録』(第8版)人事興信所、1928年、ア37ページ頁。NDLJP:1078684/87 
  8. ^ 「医学者の研究と功名心」『読売新聞』、1924年10月22日、朝刊3面。