韓崎 (潜水母艦)

潜水母艦

韓崎(からさき)は、日本海軍初の潜水母艦。艦名は対馬北端の地名から名付けられた。

韓崎
艦歴
起工
進水 1896年
就役 1897年
1904年2月6日拿捕
1905年8月1日潜水母艦に就役
除籍 1939年4月1日
その後 1947年11月25日呉市へ引き渡し
性能諸元(改装完了時)
排水量 基準:9,570トン
常備:10,500トン
全長 垂線間長:127.7m
全幅 15.2m
吃水 4.85m
機関 円缶4基
レシプロ機関2基
2軸、2,300馬力
速力 12.6ノット
航続距離
燃料 石炭900トン
乗員 249名
兵装 40口径安式8cm砲1門
山内4.7cm砲4門

概要 編集

元はロシア帝国義勇艦隊所属船エカテリノスラフロシア語:Екатеринослав)号である。名称は、現在はドニプロペトロウシクと呼ばれるドニエプル川沿いの都市に因んだものであった。オデッサウクライナ)からウラジオストクまで航行し、その帰路で日露間の国交断絶によりとなり拿捕された(名目上の日露戦争開始)。日露戦争で捕獲された艦艇にはその艦になじみのある艦名が名付けられた。本艦は対馬の北方、釜山沖で拿捕されたため、対馬北端の地の名前が付けられた。

本艦は英国の造船所の建造で拿捕当時まだ船齢8年と若く、遠洋航海にも問題のない船であった。さらに艦内に多数の人員を収容できる[1]のでその後に潜水母艦として活用されたものと思われる。

拿捕翌年、1905年(明治38年)の工事により日本海軍初の潜水母艦となる。翌年正式に日本海軍へ編入されたが、書類上の類別は元から存在する水雷母艦となった。その後二等海防艦になり水雷母艦へ戻ったが、一貫して潜水母艦の任務に従事していた。1924年(大正13年)以降は老朽化のため呉港に係留され海軍潜水学校練習艦として使用、同年に潜水母艦の類別が新設され類別が潜水母艦へ変更された。

1939年(昭和14年)に除籍されたが、船体は第二次世界大戦後の終戦後も倉橋島に残されており、1947年11月25日ポンツーンとして呉市へ引き渡された[2][3]

艦歴 編集

  • 1896年(明治29年)、英国ホーソンレスリー社で進水、後にロシア義勇艦隊貨物船エカテリノスラフとなる。
  • 1904年(明治37年)2月6日、日露間の国交断絶。当日釜山沖で日本海軍巡洋艦済遠に拿捕される。
    • 4月17日[4]、「韓崎丸」と命名(部内呼称)。
    • 4月から10月まで、陸軍で使用される。その後は海軍運送船として使用。
  • 1905年(明治38年)1月、横須賀工廠潜水母艦への改装に着手、4月末完成。
    • 5月30日、拿捕への抗議が棄却される。
    • 7月4日、正式に「韓崎丸」と命名。
    • 8月1日、第1潜水艇隊の母艦となる。
  • 1906年(明治39年)3月8日、日本海軍籍に編入、水雷母艦に類別され軍艦「韓崎」と命名。
  • 1912年(大正元年)8月、水雷母艦の類別が廃止されたため二等海防艦に類別変更される。
  • 1920年(大正 9年)4月、水雷母艦に類別変更。
  • 1924年(大正13年)以降は海軍潜水学校練習艦として、呉港に係留される。
    • 12月1日、潜水母艦に類別変更。
  • 1934年(昭和 9年)11月15日、予備艦となる。
  • 1939年(昭和14年)4月1日、除籍。
  • 1940年(昭和15年)4月1日、名称を廃艦第9号とする。
    • 9月、工員の宿泊施設として活用する案が出たが中止。
  • 1947年11月17日、ポンツーンとして呉市への引渡しが許可される[2]
    • 11月25日、呉市へ引き渡し[3]

艦長 編集

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

韓崎丸
  • 石井義太郎 大佐:1905年4月17日 - 12月12日
  • 川合昌吾 大佐:1905年12月12日 - 1906年3月8日
韓崎

要目 編集

改装完成時(1905年)の要目は上の性能諸元表を参考のこと。1919年(大正8年)ころ主缶を宮原式缶4基と交換、1926年(大正15年)ころ5cm砲2門を撤去し8cm高角砲1門を装備した。除籍直前の1937年(昭和12年)ころの常備排水量は6,269トンで、この頃までに艦内の多くの設備が撤去されていた模様である[26]

脚注 編集

  1. ^ 『海軍艦艇史 3』p259。
  2. ^ a b 昭和22年11月17日付 発・第二復員局総務部 宛・呉管船部。整理番号10番電信」 アジア歴史資料センター Ref.C08011263700 
  3. ^ a b 昭和22年11月25日付 呉市長 広島財務局長宛『受領書』」 アジア歴史資料センター Ref.C08011263700 
  4. ^ 『写真 日本の軍艦 13』p90では4月7日。
  5. ^ a b 『官報』第1883号、大正7年11月12日。
  6. ^ a b 『官報』第1960号、大正8年2月17日。
  7. ^ 『官報』第2080号、大正8年7月11日。
  8. ^ a b 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
  9. ^ a b 『官報』第3093号、大正11年11月21日。
  10. ^ 『官報』第3251号、大正12年6月2日。
  11. ^ 『官報』第3347号、大正12年10月18日。
  12. ^ a b 『官報』第3575号、大正13年7月23日。
  13. ^ 『官報』第3684号、大正13年12月2日。
  14. ^ 『官報』第3796号、大正14年4月21日。
  15. ^ 『官報』第3948号、大正14年10月21日。
  16. ^ 『官報』第91号、昭和2年4月21日。
  17. ^ 『官報』第279号、昭和2年12月2日。
  18. ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  19. ^ a b 『官報』第870号、昭和4年11月21日。
  20. ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
  21. ^ 『官報』第2043号、昭和8年10月21日。
  22. ^ a b 『官報』第2353号、昭和9年11月2日。
  23. ^ a b 『官報』第2517号、昭和10年5月27日。
  24. ^ a b 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
  25. ^ 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
  26. ^ 『写真 日本の軍艦 13』p91。

関連項目 編集

参考文献 編集

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0463-6
  • 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』KKベストセラーズ、1982年。 ISBN 4-584-17023-1
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報