順陽丸(じゅんようまる)は、日本貨物船。太平洋戦争の時期には捕虜労務者を強制労働のため各地へ運ぶ輸送船(こうした船は連合軍からは「ヘルシップ(地獄船)」と呼ばれた)となっていたが、1944年9月18日インドネシアの沖合でイギリス海軍潜水艦の雷撃を受けて沈没し、多数の死者を出した。

順陽丸
基本情報
船種 貨物船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 S. S. Ardgorm Co. Ltd
Norfold North American Steam Shipping Co. Ltd.
Johnston Line, Ltd.
Anglo-Oriental Navigation Co. Ltd.
三陽社合資会社
樺太汽船
日産汽船
小谷商店
馬場商事[1]
運用者 S. S. Ardgorm Co. Ltd
Norfold North American Steam Shipping Co. Ltd.
Johnston Line, Ltd.
Anglo-Oriental Navigation Co. Ltd.
三陽社合資会社
樺太汽船
日産汽船
小谷商店
馬場商事
 大日本帝国陸軍
建造所 ロバート・ダンカン造船所(Robert Duncan Co.)
母港 グリーノック港/グリーノック
リヴァプール港/リヴァプール
高砂港/兵庫県
江住港/和歌山県
東京港/東京都[1]
姉妹船 Queen Adelaide、Queen Margaret、Ardgair
信号符字 THSV[1]
IMO番号 32474(※船舶番号)[1]
改名 Ardgorm→Hartland Point→Hartmore→Sureway→順陽丸[1]
経歴
進水 1913年10月30日[1]
竣工 1913年12月[注釈 1][1]
最後 1944年9月18日被雷沈没
要目
総トン数 5,065トン[2]
純トン数 3,872トン
載貨重量 8,443トン[2]
全長 134.39m[2]
垂線間長 123.38m[1]
型幅 16.08m[2]
型深さ 9.07m[2]
喫水 2.29m(空船平均)[2]
満載喫水 7.37m(平均)[2]
ボイラー 石炭専燃缶
主機関 三連成レシプロ機関 1基[2]
推進器 1軸
最大出力 1,684馬力[2]
最大速力 11.1ノット[2]
航海速力 7.5ノット[2]
航続距離 10ノットで18,000海里
旅客定員 一等:2名[2]
乗組員 41名[2]
1943年10月6日徴用。
航続距離は米海軍識別表[3]より(マイル表記)。
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船歴 編集

「順陽丸」はグラスゴーのロバート・ダンカン造船所(Robert Duncan Co.)で建造され[2]1913年大正2年)10月30日に進水し[1]、同年12月に竣工した。

当初はイギリスのS. S. Ardgorm Co. Ltd.社の「Ardgorm」[1]1917年(大正6年)よりNorfolk North American Steam Shipping Co. Ltd.社の「Hartland Point」、1918年(大正8年)よりJohnston Line, Ltd.社の「Hartmore」[1]1921年(大正10年)よりAnglo-Oriental Navigation Co. Ltd.社の「Sureway」[1]1927年昭和2年)より日本の三陽社合資会社の「順陽丸」となり、1929年(昭和4年)に樺太汽船、1938年(昭和12年)12月24日に日産汽船、同年中に小谷商店と転々とし[1]1938年(昭和13年)からは馬場商事の所有となった。

1943年(昭和18年)10月6日、「順陽丸」は日本陸軍に徴用され[4]、輸送船としては寝棚640床を有して軍馬を484頭収容でき[2]小発動艇を28隻搭載できる[5]能力とされていた。後に捕虜の輸送船となり、捕虜収容用に甲板や貨物室に竹製の甲板を増設した。また、自衛用として8cm砲、爆雷4個を装備した。1944年(昭和19年)3月8日、馬場商事は馬場汽船に社名を変更した[1]

同年9月16日、「順陽丸」はペカンバル-ムアロ間のスマトラ横断鉄道の建設に投入される1,377名のオランダ人捕虜と64名のイギリス人(オーストラリア人含む)捕虜、8名のアメリカ人捕虜と4,200名あまりのジャワ人労務者を乗せて、ジャワ島バタヴィアのタンジョンプリオクを出港。18日、南緯02度53分 東経101度11分 / 南緯2.883度 東経101.183度 / -2.883; 101.183パダン南南東225km地点にさしかかったところでイギリス潜水艦「トレードウィンド」(HMS Tradewind)の雷撃で沈没した。これは5,620名が死亡する当時世界最大規模の海難事故となった。680人ほどの生き残った捕虜はスマトラ横断鉄道の現場に送られたが、終戦まで生き延び、救出されたのはわずか100人たらずだった[6]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『日本汽船名簿』では進水日としている。(#日本汽船名簿

出典 編集

参考文献 編集

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050083800『昭和十八年度版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、p .42頁。 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 戦前船舶研究会『戦前船舶資料集 第113号』戦前船舶研究会、2007年。 
  • "Eresaluut boven massagraf : Junyo Maru de -vergeten- scheepsramp", E.Melis (met de medew. van W.F. van Wamel en Th. Jansen), 1985, ISBN 90-9400414-3
  • "Een ooggetuigeverslag van de torpedering van de Junyo Maru en de dwangarbeid van de overlevenden aan de Pakanbaroe Spoorweg", F.F.E. von Fuchs, 1994

外部リンク 編集