飛田遊廓

かつて日本の大阪に存在した遊廓

飛田遊廓(とびたゆうかく)は、日本大阪府大阪市西成区山王3丁目一帯に存在した遊廓大正時代後半から昭和初期にかけて日本最大級の遊廓といわれた。

元遊廓だった飛田新地
飛田新地、2010年

概要 編集

 
飛田新地(遊廓)紋章

大正時代に新設された遊廓(貸座敷免許地)である。第2次世界大戦後、遊郭は廃止されたが、現在も「ちょんの間」営業を続けており、通称飛田新地(とびたしんち)と呼ばれる。

歴史 編集

1912年(明治45年)1月16日、難波新地乙部遊廓が全焼するミナミ大火が発生した。焼け跡には妓楼の再建が許可されなかったため、天王寺村(阿倍野墓地北西の低地)に代替地を求め、1916年(大正5年)に遊郭の指定を受けた。規模は、22,600坪。同年、「阪南土地建物会社」が設立され、一帯の土地を買収し、道路等を整備した。建物も同社が建設し、業者に貸し出す形態を取った。 遊郭地の指定にあたっては、同年10月21日に大阪婦人矯風会が大阪府庁に母親デモを行うなど反対運動も行われた[1]1918年(大正7年)12月に開廓式が行われ、当時58戸の妓楼(貸座敷)があった。妓楼の数は昭和初期には200軒を超える。大阪のほとんどの花街が戦災を受けたが、飛田の一部は焼失を免れた[2]

1930年(昭和5年)に刊行された『全国遊廓案内』によると、

飛田遊廓は大阪市住吉区山王町四丁目に在って、関西線天王寺駅で下車し、西南へ五丁程行った処、電車は南海電鉄阪堺線と、田辺線との交差点たる「今池駅」で下りた処が飛田遊廓に成っている。元難波新地に在った遊廓と新町遊廓の一部が、大正七年に茲へ移転して来たもので、未だ真新しい木の香りがする程の遊廓である。現在貸座敷は二百廿軒あって、娼妓は二千七百人居る。九州四国方面の女が多い。大門を入ると中央の大通りを中心に、縦横街は幾筋と無く整然と別れて、和洋折衷の貸座敷がずらりと並んで居る。店は全部写真店で、陰店は張って無い。揚屋や引手茶屋も無く、客は直接貸座敷へ登楼する。娼妓は全部居稼ぎ制で、遊興は時間、又は通し花制で廻しは取らない。費用は一時間一円五十銭で、午後六時から十二時迄が五円二十五銭、引けから翌朝六時迄が四円九十五銭、六時から正午迄は二円七十銭、正午から六時迄は四円五十銭と云う事に成っている。但し台の物は別だ。芸妓を呼べば一時間の玉代は約九十銭。主なる妓楼は品の家、秋津楼、大和楼、辨天楼、梅ヶ枝楼、正玉楼、吾妻楼、小山楼、岡山楼、寶閣、金星楼、新大和楼等。 — 『全国遊廓案内』[3]

戦後はいわゆる「赤線」(特殊飲食店街)に指定され、「待合」の名目で営業することになった。売春防止法の施行後は「料亭」となった。

かつては巨大なコンクリート壁に囲まれていた。坂口安吾1951年に、

世道人心に害があるというので大阪の警察が目隠ししたのだろうと考えたら(略)往年の楼主が娼妓の逃亡をふせぐために作ったものだそうだ。そこへ関東大震災があって吉原の娼妓が逃げそこなって集団的に焼死したので、大阪に大火があったら女郎がみんな死ぬやないか、人道問題やで、ほんまに。大阪市会の大問題となって、コンクリートの塀に門をあけろ、ということになった。 — 『安吾の新日本地理 道頓堀罷り通る』[4]

と記している。

現在、本来の飲食店として営業している「鯛よし百番」は、大正中期に妓楼として建てられた建物を使用しており、2000年に国の登録有形文化財に登録された[5]

ちょんの間 編集

1958年の売春防止法施行以後は料亭街となり、現在も往事の雰囲気を残している。店舗は「料亭」の看板を掲げ、『飛田新地料理組合』という業者団体を構成している。料亭と言っても、飲食物目当ての客はほとんどおらず、営業内容は1958年以前の赤線時代と大差ない。いわゆるちょんの間と呼ばれる本番風俗である。ソープランドとは異なり、入浴設備はなく、赤線時代と異なり、宿泊はできない。

売春防止法では「何人も売春をし、又はその相手方となってはならない」とある。場所の提供も勧誘も刑事処分の対象だが、表向き料亭に転向[6]することにより、料亭内での客と仲居との「自由恋愛」という建前により、運営が当局より黙認されているとも言われる。

作家の黒岩重吾は1960-70年代に一連の「西成物」で裏ぶれた風俗街の様子を活写している。その後、インターネットや成人雑誌等でちょんの間風俗が取り上げられ、近年はSNSの普及によって、その存在が全国的に知られるようになった。若年層の男性や、訪日外国人など客層に変化がみられていた。

働いている女性については「最初は、これだけ貯めたら辞めようと思って入ってくるみたいだけど、その日その日に何万円も現金を手にするようになると、自然と金遣いが荒くなる。普通の勤めだと、働き始めて1カ月しないと給料が入ってこない。それに我慢できず、結局、抜けられなくなる」と関係者が証言している[7]

撮影禁止 編集

営業時間帯は、店内の様子を含めて公道も撮影が禁止されているが、スマートフォンの普及で写真や動画で撮影するマナー違反が続出し、その後、認知が進み、マナー違反は見られなくなった。

飛田新地料理組合は、公道であっても飛田遊廓内の撮影を禁止している。遊廓内には撮影禁止マークが貼られており、撮影者は客寄せの女性から注意される。客寄せの女性からの注意を無視して撮影をした人物が、警察に通報された事例もある[8]

公道での撮影を禁止する法律は存在しないため、この取締に法的な根拠は無いが、歴史の長い飛田遊廓が抱える特殊な事情から、警察も店を咎めることはない。遊廓で働く女性の顔が映像として記録されると、家族や友人に見つかるなどして生活上で様々な不都合が生じるため、不文律として守られている。

2015年9月23日放送の探検バクモン「ニッポン労働ブルース~人情編~」にて町並みが放送された[9]

全店休業 編集

2019年(令和元年)6月28日・29日に20カ国・地域首脳会合が大阪市で開催された際には、トラブル防止のため、飛田新地料理組合に加盟する料亭全店(159店)が自主的に休業した[10]

2020年4月1日までにCOVID-19拡大の影響で緊急事態宣言が発令すれば、全店舗を休業することを決定した[11]

2022年9月27日に、安倍晋三安倍元首相の国葬が行われるのに合わせて全店舗が休業した[12]

近年の摘発事例 編集

2018年5月、山口組系極心連合会幹部とその内縁の妻が売春防止法違反容疑で逮捕された。さらに、同年12月には「売春を行う場所」になっていた建物を貸していたとして、スーパー玉出の創業者が組織犯罪処罰法違反(犯罪収益の収受)の容疑で逮捕された[13]

交通 編集

廃止 編集

名所・旧跡 編集

  • 母子観音像 - 山王3丁目5

飛田遊廓が登場する作品 編集

脚注 編集

  1. ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、412頁。ISBN 4-309-22361-3 
  2. ^ 『飛田百番』p78、p84。「大阪春秋」25号 堀内宏昭編 大阪春秋社 昭和55年 p.106も参照。
  3. ^ 『全国遊廓案内』346 - 347頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月7日閲覧。
  4. ^ 坂口安吾 安吾の新日本地理 道頓堀罷り通る
  5. ^ 文化財建造物の登録について”. 文化庁. 2014年3月25日閲覧。
  6. ^ 禁断の遊廓「飛田新地」が“外”に開かれた日(5/5ページ)産経ニュースWESTライフ(2012年8月4日)
  7. ^ 密やかに続く遊郭に中国の影…元料亭経営者がその内実を赤裸々に明かした!”. 2023年3月24日閲覧。
  8. ^ ネット配信者が撮影禁止の飛田新地でツイキャス 警察が駆けつける事態に”. ライブドアニュース. 2021年11月22日閲覧。
  9. ^ ただし看板にはボカシが入っていた。
  10. ^ G20、大阪の歓楽街「飛田新地」で全店休業”. 産経ニュース (2019年5月16日). 2019年5月16日閲覧。
  11. ^ 京都新聞2020年4月2日朝刊p25
  12. ^ 繁孝, 土井 (2022年9月27日). “【安倍元首相国葬】大阪の歓楽街・飛田新地で弔意”. 産経ニュース. 2022年10月2日閲覧。
  13. ^ スーパー玉出の創業者逮捕 暴力団との関係は有名 「業者へ無茶な値引き要求や脅しも…」従業員”. AERA.dot (2018年12月3日). 2018年12月3日閲覧。

参考文献 編集

  • 『全国遊廓案内』日本遊覧社、1930年。
  • 吉里忠史・加藤政洋・橋爪紳也 ・上諸尚美『飛田百番: 遊郭の残照』(創元社、2004年)
  • 井上理津子『さいごの色街 飛田』 筑摩書房、2011年。ISBN 4480818316

関連項目 編集

外部リンク 編集

座標: 北緯34度38分39.57秒 東経135度30分19.60秒 / 北緯34.6443250度 東経135.5054444度 / 34.6443250; 135.5054444