高 元長(こう げんちょう、? - 1285年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた女真人の一人。

概要 編集

高元長は初代皇帝チンギス・カンから第2代皇帝オゴデイの時代にかけて活躍した女真人将軍の高鬧児の息子で、1259年己未)に第4代皇帝モンケの命によって父の地位を継承した。高元長はモンケの弟のクビライの率いる軍団に配属されて鄂州攻めに加わり、モンケの急死によって遠征軍が帰還すると随州に駐屯した。至元2年(1265年)に季陽に移り、至元5年(1268年)からは元帥のアジュ率いる軍団に属し、白河口・新城・鹿門山などの城堡を建設して襄陽の包囲戦に加わった。至元7年(1270年)、季陽軍馬総管とされ、至元10年(1273年)に襄陽城の攻城戦が始まると真っ先に城壁に上がる功績を挙げた[1]

襄陽が陥落したことにより至元11年(1274年)から南宋領への全面侵攻が始まると、長江を渡り南宋兵300を殺し戦船・鎧仗を奪う功績を挙げて宣武将軍の地位を授けられた。 丁家洲の戦いでは孫虎臣率いる軍団と相対して500人余りを殺し、数え切れないほどの戦船・鎧仗を奪取した。その後、夏貴を焦湖の戦いで破り、常州を征服した。南宋の平定後、南宋の皇太后を護送してクビライの下まで至り、それまでの功績によって懐遠大将軍・万戸の地位を授けられた[2]

至元21年(1284年)、2000の兵を率いてトガンを総司令とする陳朝遠征に加わり、陳朝の世子を大海口に追撃して戦艦を奪う功績を挙げた。至元22年(1285年)には安遠大将軍・季陽万戸府万戸の地位に昇格となったが、同年夏に再び陳朝の世子と三叉口で戦った際に毒矢に当たって戦死した[3]。死後は息子の高メルゲンが地位を継承した。

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻151列伝38高鬧児伝,「歳己未、憲宗憫其老、命其子元長襲其職、従世祖渡江攻鄂、還鎮随州。至元二年、移鎮季陽。五年、従元帥阿朮修立白河口・新城・鹿門山等処城堡、囲襄樊。七年、充季陽軍馬総管。十年、従攻樊城、先登」
  2. ^ 『元史』巻151列伝38高鬧児伝,「十一年、従渡江、鼓戦艦上流、与宋人戦、殺三百餘人、奪其船及鎧仗、以功賜虎符、陞宣武将軍。進兵丁家洲、与宋臣孫虎臣等大戦、殺五百餘人、奪其船及鎧仗無算。敗夏貴于焦湖。従征常州、先登。又攻杭州。宋平、護送宋太后至京師。以功進懐遠大将軍・万戸」
  3. ^ 『元史』巻151列伝38高鬧児伝,「二十一年、領軍二千、従太子脱歓征交趾・追襲交趾世子于大海口、奪其戦艦以還。二十二年、陞安遠大将軍・季陽万戸府万戸。是年夏、復以兵追襲交趾世子于海之三叉口、与敵軍合戦、中毒矢而死」

参考文献 編集

  • 山本達郎『安南史研究』山川出版社、1950年
  • 元史』巻151列伝38高鬧児伝
  • 新元史』巻147列伝44高鬧児伝