高木 助一 (たかぎ すけかず、1863年7月6日文久3年5月21日) - 1920年大正9年)2月8日)は、帝国海軍に所属した明治時代日本海軍少将である。

来歴 編集

薩摩藩士の高木秀明の子として生まれ、高木市助の養子となる。高木家の初代は九郎左衛門といった。1882年に海軍兵学校9期)を卒業し「清輝」に乗船。日清戦争には「扶桑」分隊長として従軍。1902年に「比叡」、1903年に「千歳」の艦長に就任し、日露戦争においてはコルサコフ海戦で二等巡洋艦「ノヴィーク」を航行不能とした。また日本海海戦では駆逐艦「ベズプリョーチヌイ」を「有明」とともに追撃、撃沈した。戦後は『運用術参考書』を編纂、「見島」、「鎮遠」艦長を経て舞鶴予備艦隊司令官となり、1912年予備役。

編著 編集

  • 『運用術参考書』(軍港堂、1907年)

脚注 編集

外部リンク 編集

運用術参考書 - 国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)