高橋 勝兵衛(たかはし かつべえ、1859年7月24日安政6年6月25日[1]〉 - 1932年昭和7年〉10月31日[1][2])は、明治から昭和時代戦前の政治家山形県会議長。山形県山形市長。幼名は源吉、のち謙[1]

経歴 編集

先代勝兵衛の長男として[2]出羽新庄藩村山郡大槇村(山形県北村山郡大槇村、戸沢村を経て、現村山市大槇)に生まれる[1]。代々酒造業を営む旧家であった[1]漢学を修めたのち、米沢中学に遊学する[3]。1876年(明治9年)大槇小学校設立とともに補助教師となり、のち白鳥稲長小学校兼務となる[3]学務委員を経て、連合町村会議員に当選[3]。1886年(明治19年)2月には28歳で山形県会議員に当選し、その後死去するまで12回当選した[3]

県参事会員を2期務め、県会議長となり[3]、1927年(昭和2年)議長在任中に山形市長に迎えられた[2]。1928年(昭和3年)藍綬褒章を受章した[2]。1932年(昭和7年)10月31日、在任中に死去した[2][4]

脚注 編集

参考文献 編集