鹿苑寺

鹿苑寺
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金閣(舎利殿)
所在地 京都府京都市北区金閣寺町1
位置 北緯35度2分21.85秒
東経135度43分45.71秒
山号 北山(ほくざん)
宗派 臨済宗相国寺
寺格 相国寺山外塔頭
本尊 観音菩薩(方丈本尊)
創建年 1397年応永4年)
開山 夢窓疎石
開基 足利義満
別称 金閣寺
札所等 神仏霊場巡拝の道 第93番
文化財 絹本著色足利義満像、大書院障壁画ほか(重要文化財
庭園(特別史跡、特別名勝)
世界遺産
焼失以前の金閣(1893年)
焼失以前の金閣(1905年)
焼失直後の金閣(1950年7月2日)
夕佳亭と南天床柱
金閣(2005年)
安民沢と白蛇の塚
鏡湖池に映る「逆さ金閣」

鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の金閣寺(きんかくじ)と通称される。相国寺の境外塔頭(けいがいたっちゅう)である[1]

寺名は足利義満院号鹿苑院に因む。山号北山(ほくざん)。寺紋は五七桐[2]足利義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿(通称金閣)は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年に焼失し、その後再建された。寺は1994年(平成6年)に「古都京都の文化財」の構成要素として世界遺産文化遺産)に登録された。舎利殿を金閣、寺院全体を金閣寺と通称する。

歴史

この地には、鎌倉時代1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘(「北山第」)を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

1397年(応永4年)、足利義満河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。1394年(応永元年)、義満は征夷大将軍を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を行っていた。義満が死亡すると義持は北山殿に住んでいた異母弟義嗣を移転させ、自らここに入った。翌年には一部を破却して三条坊門第に入った。その後義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺建仁寺に寄贈された[3]。また、応永23年(1416年)1月に義満が相国寺から移築した大塔が焼失すると、義持は大塔を本来の所在地である相国寺に再建するように命じている[4]。舎利殿は義満の遺言により禅寺とされ、義満の院号「鹿苑院」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も1649年(慶安2年)に大修理された。

明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により、1894年(明治27年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。

金閣(舎利殿)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法文化財保護法の前身の1つ)により、1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝(後に特別史跡・特別名勝)に指定されている。

1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝金閣(舎利殿)と安置されていた仏像等を焼失(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められ[5]1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。10月10日落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。

1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、平成に入り、夕佳亭・方丈の解体修理も行われている。

1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなった世界遺産文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。

金閣(舎利殿)

通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層宝形造の建物で、正式には舎利殿と称する。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築である。初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する。二層は書院造風(武家造)で「潮音洞」(ちょうおんどう)と称し、岩屋観音坐像と四天王像を安置する。三層は禅宗様仏殿風で「究竟頂」(くっきょうちょう)と称し、仏舎利を安置する。屋根は(さわら)の薄い板を重ねた杮葺(こけら葺)で、頂上には金銅製の鳳凰が飾られている。なお、金箔は二層および三層に貼られている。

鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)。国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は、1999年(平成11年)に京都市指定文化財に指定されている。林は寺の裏山で自殺を図った。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに保津峡で投身自殺した。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。

現在の金閣は、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、1952年(昭和27年)から3年を掛けて復元再建されたもので[6]1955年(昭和30年)10月10日に落慶法要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その漆も紫外線で劣化するようになったため、1986年(昭和61年)2月から1987年(昭和62年)10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1µm)の5倍の厚さ(約0.45〜0.55µm)の「五倍箔」[7]約20万枚(約20kg)、漆は国産の「浄法寺漆」約1.5トンが使用されている。

最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井であった[8]

8代将軍足利義政は祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。

銀閣(慈照寺観音殿)、飛雲閣(西本願寺)と併せて「京の三閣」と呼ばれる。

境内

金閣
金閣(舎利殿)の項を参照。
方丈
本堂に相当。単層入母屋造桟瓦葺1678年(延宝6年)、後水尾天皇の寄進により再興された。2005年(平成17年)から解体修理が行われ、2007年(平成19年)に修復工事を終えた。
陸舟(りくしゅう)の松
方丈北側にある足利義満手植えと伝えられる松。京都三松の一つ。
大書院
江戸中期(貞享年間)の建築。伊藤若冲の障壁画(襖絵)で知られていたが、保存上の問題から承天閣美術館に移管され(下記文化財の項を参照)、現在は加藤東一によって「淡墨桜図」「大杉図」「日輪図」「月輪図」「鵜之図」「臥竜梅図」「千鳥図」「若竹図」等が描かれている。
銀河泉(ぎんがせん)
足利義満がお茶の水に使ったと伝えられる泉。
厳下水(がんかすい)
足利義満が手洗いに用いたと伝えられる泉。
夕佳亭(せっかてい)
金森宗和好みと伝えられる茶室寄棟造茅葺、三畳敷の席に勝手土間からなる主屋に、切妻造杮葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。明治初年に焼失したため、現在の建物は1874年(明治7年)に再建されたもの。1997年(平成9年)に解体修理を行っている。なお三畳敷の床柱は茶席としては珍しく南天の木が用いられており、殊によく知られている。
庭園
金閣を水面に映す鏡湖池(きょうこち)を中心とする池泉回遊式庭園で、国の特別史跡特別名勝に指定されている。鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されている。
不動堂
天正年間に宇喜多秀家が再建したとされ、金閣寺境内に現存する最も古い建物。本尊は空海(弘法大師)作の伝承を有する石不動明王

文化財

重要文化財

伊藤若冲の障壁画をはじめ、大部分の指定文化財は本山である相国寺が管理しており、承天閣美術館で保管されている。

特別史跡・特別名勝

焼失した文化財

交通

出典

  1. ^ 臨済宗相国寺派公式サイト/
  2. ^ 千鹿野 茂 『日本家紋総鑑』ISBN 4040315006 角川書店、1993年、373頁。
  3. ^ 桜井英治 『室町人の精神 日本の歴史12』(講談社学術文庫2009年(原著は2001年 ISBN 406268912XISBN 978-4062689120 、84-85p
  4. ^ 細川武稔 「足利氏の邸宅と菩提寺 -等持寺・相国寺を中心に-」『京都の寺社と室町幕府』(吉川弘文館)2010年(原論文は『史学雑誌』第107編12号、1998年)ISBN 978-4642028875 、29・36p
  5. ^ 【もう一つの京都】日本国王・義満の威光から昭和の放火まで 鹿苑寺金閣の魅力[リンク切れ]、MSN産経ニュース、2008年11月23日
  6. ^ 北山 鹿苑寺 金閣|文化財の修理の現場から (日本語)、全京都建築労働組合
  7. ^ 浩悦庵-金閣寺昭和大修復 (日本語)
  8. ^ 村田治郎の文章(鹿苑寺編『再建金閣』鹿苑寺,1955,p.16)、後藤柴三郎(京都府文化財保護課技師:当時)の座談会での証言(村田治郎ほか「金閣の復旧をめぐって」文化財保護委員会監修『日本文化財』奉仕会出版部,No.6,1955年10月,p.32)など
  9. ^ 文化財建造物保存技術協会編・刊行『国宝・重要文化財建造物官報告示』、1996
  10. ^ 文化庁編『戦災等による焼失文化財(増訂版)美術工芸品編』、便利堂、1983

参考文献

関連項目

外部リンク