黄 紹竑(こう しょうこう)は、中華民国中華人民共和国の軍人・政治家。国民政府国民革命軍)の軍人で、李宗仁白崇禧とともに新広西派(新桂系)の主要指導者の一人であった。別名は紹雄季寛

黄紹竑
Who's Who in China Suppl. to 4th ed. (1933)
プロフィール
出生: 1895年12月1日
光緒21年10月15日)
死去: 1966年8月31日
中華人民共和国北京市
出身地: 広西省梧州府容県
(現:玉林市容県)
職業: 政治家・軍人
各種表記
繁体字 黃 紹竑
簡体字 黄 绍竑
拼音 Huáng Shàohóng
ラテン字 Huang Shao-hung
和名表記: こう しょうこう
発音転記: ホワン・シャオホン
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事跡 編集

新広西派の成立 編集

大地主の家庭に生まれ、桂林の兌沢高等小学を卒業後、1910年宣統3年)春に広西陸軍小学第4期として入学した。このとき、第3期の李宗仁と同学になり、また、校内で革命派の思想の影響を受けている。

1911年辛亥革命が勃発すると、黄紹竑は武昌南京で学生軍として革命派に参加した。1912年民国元年)秋、武昌陸軍第2予備学校に入学している。卒業後の1915年(民国4年)、保定陸軍軍官学校第3期に入学し、このときに白崇禧・夏威と同学になった。1916年(民国5年)に卒業して広西省に戻り、広西新軍模範営などに属している。

1920年(民国9年)の粤桂戦争で桂軍(広西軍)が粤軍(広東軍)に敗北すると、黄紹竑は桂軍の主力から離脱する形で百色に移駐した。このとき、軍備強化のためアヘン取引を掌握するなどしている。その後も広西省内では混乱が続き、黄紹竑は様々な勢力と離合を繰り返していく。

1923年(民国12年)秋、黄紹竑は李宗仁率いる定桂軍に参加し、白崇禧らもこれに合流して新広西派の基礎が固まった。1924年(民国13年)5月より、新広西派は、旧広西派陸栄廷沈鴻英との三つ巴の戦いを開始した。6月、南寧に定桂聯軍司令部が設置されると、李宗仁が総指揮、黄紹竑が副総指揮、白崇禧が前敵総指揮となった。8月までに、新広西派は広西の3分の2を掌握している。

新広西派での活躍 編集

 
黄紹竑別影

11月、黄紹竑は李済深の招請に応じて広州を訪問し、中国国民党に加入した。広西に戻ると、李宗仁は広西善後督弁、黄紹竑は同会弁に任ぜられた。1925年(民国14年)、新広西派はついに広西を統一する[1]。9月、黄紹竑は広西省政府民政庁庁長に任ぜられ、広西省の内政改革に取り組んだ。黄紹竑は内政手腕にも優れ、その好成績から「新広西」として国内でも評判になった。

1926年(民国15年)3月、李宗仁率いる軍は国民革命軍第7軍に改組され、李宗仁が軍長、黄紹竑は同軍党代表となった。同年夏、国民政府の下での制度改正に伴い、黄紹竑は広西省政府主席に任ぜられた。1927年(民国16年)4月の上海クーデターでは、蔣介石の意を受けて、黄紹竑も部下の黄旭初中国共産党粛清を命じた。また、南昌起義の鎮圧、張発奎黄琪翔率いる反蔣粤軍の撃破の指揮もとった。

しかし1929年(民国18年)3月、蔣桂戦争が勃発すると、黄紹竑も桂軍として蔣介石軍と戦うことになる。一時は、兪作柏らの離反により、李宗仁・白崇禧らとともに香港へ逃れざるを得なかった。しかし、まもなく広西が大混乱に陥ったため、3人は同年11月に再び新広西派の指導者として返り咲くことが出来た。1930年(民国19年)、またしても李宗仁らに反旗を翻した呂煥炎を、黄紹竑は撃破している。

同年の中原大戦で反蔣介石軍が敗北すると、黄紹竑は第15軍軍長兼広西省政府主席の地位を捨てて下野する。以後、蔣介石への徹底抗戦は困難と考え、黄紹竑は新広西派から事実上離脱して南京入りした。1931年(民国20年)、広州非常国会の反蔣運動への対抗上から、一時的に蔣介石から広西軍務善後督弁に任命されたが、現地には向かうことが出来なかった。1932年(民国21年)5月、内政部長代理に任命されている。

浙江省などでの活動 編集

1934年(民国23年)12月、黄紹竑は浙江省政府主席に任ぜられ、1936年(民国25年)12月、湖北省政府主席に異動した。1937年(民国26年)に日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、第2戦区副司令長官として山西省閻錫山を補佐した。

同年11月、呼び戻されて浙江省政府主席に再任され、さらに第3戦区遊撃総司令も兼ねた。杭州が日本軍により陥落させられてからは、省会(省都)を頻繁に移し変えながらも抗戦を継続し、最後まで戦い抜いた。また、この間に、中国共産党との政治的交流も開始している。

1946年(民国35年)3月、共産党との交流などを蔣介石に猜疑された黄紹竑は、浙江省政府主席を罷免された。その後、立法委員、監察院副院長などを歴任する。1948年(民国37年)に李宗仁が副総統選挙に出馬した際には、これを支援して当選に貢献した。

蔣介石が下野に追い込まれ、李宗仁が代理総統となった後の1949年4月、黄紹竑は国民党代表団の1人として和平交渉に赴いた。黄紹竑らは共産党が提示した和平協定を持ち帰ったが、国民党の指導部はそれを拒否する。そのため、黄紹竑は香港に逃れた。同年8月、黄紹竑は44人の著名人士たちとともに香港で国民党からの離脱を宣言する。9月、北平に赴いて中国人民政治協商会議(新政協)に参加した。

不遇の晩年 編集

中華人民共和国が成立してからは、黄紹竑は政務院(後の国務院)政務委員、全国人民代表大会常務委員、中国人民政治協商会議全国委員会委員などを歴任した。また、中国国民党革命委員会(民革)中央常務委員にもなっている。しかし、1957年8月、反右派運動の中で、「右派分子」と認定されてしまった(1962年1月、右派認定を取り消された)。文化大革命の時期になると、黄紹竑は四人組から「右派」とみなされ、紅衛兵の迫害を受けた。

1966年8月31日、失意の黄紹竑は北京市の自宅で自殺した。享年72(満70歳)。文化大革命後に四人組が失脚すると、黄紹竑の名誉は回復され、1982年12月、北京で民革による追悼会が開催された。

脚注 編集

  1. ^ 統一完了時期については諸説ある。胡啓望・項美珍「黄紹竑」『民国人物伝第12巻』、132頁は、黄紹竑が広西省民政長に就任した1925年9月を統一完了時期としている。しかし莫済杰・陳福林主編 『新桂系史第1巻』、96頁は、同年7月に雲南軍を撃退した時点を統一完了時期と見ている。一方、当事者の間でも見解が割れている。李宗仁は、やはり7月で統一完了と見ているが(『李宗仁回憶録』、178頁)、黄紹竑は、1925年年末に省内敵対勢力を掃討し終わった時点を、統一完了と見ている(『五十回憶』、109頁)。

参考資料 編集

  • Huang Shaohong (写真付)
  • (rulers of) Administrative Divisions, China
  • THE ZHUANG AND THE 1911 REVOLUTION
  • 胡啓望・項美珍「黄紹竑」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0 
  • 范銀飛他「黄紹竑」『民国高級将領列伝 4』解放軍出版社、1999年。ISBN 7-5065-1121-5 
  • 黄紹竑『五十回憶』岳麓書社、1999年。ISBN 7-80520-968-5 
  • 李宗仁口述、唐徳剛撰写『李宗仁回憶録』広西人民出版社、1988年。ISBN 7-219-00473-7 
  • 莫済杰・陳福林主編『新桂系史 第1巻』広西人民出版社、1991年。ISBN 7-219-01885-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
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