黎 淳(れい じゅん、1423年 - 1492年)は、明代官僚は太樸、は樸庵。本貫岳州府華容県

黎淳

生涯 編集

1423年(永楽21年)10月29日、黎斌の子として生まれた。1457年天順元年)、進士に首席で及第し、翰林院修撰に任じられた。1461年(天順5年)、『大明一統志』の編纂に参加した。1463年(天順7年)、礼部会試の考官をつとめた。1465年成化元年)、成化帝の御前で経学を講義した。1466年(成化2年)、左春坊左諭徳に進んだ。1467年(成化3年)、『英宗実録』の編纂に参加した。完成すると、左庶子に進んだ。12月、高瑤景泰帝に廟号を贈るよう請願した。黎淳はこれに反対して、成化帝が皇太子位を廃されたことを取り上げて景泰帝を非難した。成化帝は黎淳を叱責した[1]1477年(成化13年)、黎淳は『続通鑑綱目』の編纂に参加した。完成すると、少詹事・兼侍読学士に進んだ[2]1478年(成化14年)、吏部右侍郎に抜擢された。1486年(成化22年)、南京吏部右侍郎に転じた。1487年(成化23年)、南京吏部左侍郎に進んだ。弘治帝が即位すると、黎淳は南京工部尚書に抜擢された。1488年弘治元年)、南京礼部尚書に転じた[3]1491年(弘治4年)、致仕を願い出て許された。1492年(弘治5年)4月18日、死去した。享年は70。著書に『龍峰集』13巻・『国朝試録』640巻[4]があった。は文僖といった。

脚注 編集

  1. ^ 明史』憲宗紀一
  2. ^ 談遷国榷』巻37
  3. ^ 『国榷』巻41
  4. ^ 『明史』芸文志四

参考文献 編集

  • 『明史』巻164 列伝第52
  • 黎文僖公伝(倪岳『青渓漫稿』巻24所収)
  • 明故資善大夫南京礼部尚書致仕進階栄禄大夫諡文僖黎公先生行状(李東陽『懐麓堂集』巻43所収)
  • 故南京礼部尚書諡文僖黎公神道碑銘(徐溥『謙斎文録』巻4所収)