1929年モナコグランプリは、1929年4月14日モナコ公国において開催された自動車レースで、モナコグランプリの第1回大会にあたる。

モナコ 1929年モナコグランプリ
レース詳細
1929年のグランプリ・シーズン
ウィリアム・グローバー=ウィリアムズが駆るブガッティ・タイプ35B。路面に見えるのは路面電車(英語版)の線路(1932年に撤去)。
ウィリアム・グローバー=ウィリアムズが駆るブガッティ・タイプ35B。路面に見えるのは路面電車英語版の線路(1932年に撤去)。
日程 1929年4月14日
正式名称 Grand Prix Automobile de Monaco
開催地 モンテカルロ市街地コース
コース 公道コース
コース長 3.180 km (1.976 mi)
レース距離 100周 318.0 km (197.6 mi)
ファステストラップ
ドライバー イギリス ウィリアム・グローバー=ウィリアムズ (GBR) ブガッティ
タイム 2:15.0 (記録周不明)
決勝順位
優勝 ブガッティ
2位 ブガッティ
3位 メルセデス・ベンツ

概要 編集

初開催にいたる経緯 編集

モナコでは1911年からラリー・モンテカルロが開催されていた[1]。主催団体の会長を務めていたアレクサンデル・ノゲ(Alexandre Noghès)はその後も自動車関連のイベントを催し、規模が大きくなっていったことで、元々はサイクリング協会として発足した組織を改組する形で、1925年にモナコ自動車クラブ英語版(ACM, Automobile Club de Monaco)を発足させた[1]。ACMは、国際公認自動車クラブ協会(AIACR。FIAの前身)のメンバーとなるべく加入申請を行ったが、(モナコ名義の競技のほとんどはフランス国内で開催されているという理由で)申請は却下されてしまう[1][2][3]

このことがきっかけとなり、父アレクサンデルを手伝い申請の実務を担っていたアントニー・ノゲが、モンテカルロ市街地で自動車レースを開催することを計画し、その実現のために活動を始めた[1]

都市間や郊外の公道ではなく、市街地でレースを行うというアイデアは当時としては突飛なものだったが[注釈 1]、この計画は、モナコ出身のレーシングドライバーであるルイ・シロンの助言や、モナコ公ルイ2世からの支持も得て進められた[1]

そうして1929年4月の初開催にこぎつけ、賞金として10万フランが用意され、16名の招待選手によって初開催が実現した。

参加者 編集

市街地コースの設定に協力したシロンは、インディ500英語版への参戦を優先するため、欠場した[注釈 2]

優勝者の「W・ウィリアムズ」はウィリアム・グローバー=ウィリアムズの、4位に入った「ジョージ・フィリップ」はフィリップ・ド・ロチルドのそれぞれ偽名である。

コースレイアウト 編集

 
コース図

ノゲらが計画して、モンテカルロ市街地に3.180 kmの市街地コースが設定された。第二次世界大戦後の1973年に大きく改修されるまで[注釈 3]、基本的にこのレイアウトが用いられ続けられた。

後のレイアウトとは主に海側が異なる。後に最終コーナーとなる「アントニー・ノウズ」(1929年当時は「Gazometer」)が第1コーナーとなり、海側はシケインの位置がタバココーナーに近く、最終コーナーとなるタバココーナーと第1コーナー「Gazometer」の間に緩やかな弧を描くホームストレートが置かれた[注釈 4]

スターティンググリッド 編集

グリッドポジション(スタート順位)はくじ引きによって決められた。グリッドは1列に3台が並ぶ形で組まれた。

1列目 1 2 3
  フィリップ・エタンセラン英語版   クリスチャン・ドーヴェルニュフランス語版   マルセル・ルフー英語版
2列目 4 5 6
  グリエルモ・サンドリ (Guglielmo Sandri)   W・ウィリアムズ   ジョージ・フィリップ
3列目 7 8 9
  ゴッフレード・ツェーエンダー英語版   ジョルジュ・ボウリアノ英語版   ラウル・デ・ロビンフランス語版
4列目 10 11 12
  ルイス・リガルフランス語版   ディエゴ・デ・スターリッヒイタリア語版   ルネ・ドレフュス英語版
5列目 13 14 15
  マリオ・レポーリ (Mario Lepori)   ミシェル・ドレフランス語版   ルドルフ・カラツィオラ
6列目 16
  アルベール・ペローフランス語版

決勝レース結果 編集

順位 車番 ドライバー 車両 周回数 タイム / リタイア原因 グリッド
1 12   W・ウィリアムズ ブガッティ・タイプ35B 100 3:56:11.0 5
2 18   ジョルジュ・ボウリアノ英語版 ブガッティ・タイプ35C 100 + 1:17.8 8
3 34   ルドルフ・カラツィオラ メルセデス・ベンツ・SSK 100 + 2:22.6 15
4 14   ジョージ・フィリップ ブガッティ・タイプ35C 99 + 1 Lap 6
5 28   ルネ・ドレフュス英語版 ブガッティ・タイプ37A 97 + 3 Laps 12
6 4   フィリップ・エタンセラン英語版 ブガッティ・タイプ35C 96 + 4 Laps 1
7 30   マリオ・レポーリ (Mario Lepori) ブガッティ・タイプ35C 94 + 6 Laps 13
8 32   ミシェル・ドレフランス語版 ラ・リコルヌ英語版 89 + 11 Laps 14
9 24   ルイス・リガルフランス語版 アルファロメオ・6C英語版 87 + 13 Laps 10
Ret 22   ラウル・デ・ロビンフランス語版 ドラージュ・15S8フランス語版 80 アクシデント 9
Ret 16   ゴッフレード・ツェーエンダー英語版 アルファロメオ・6C英語版 55 メカニカルトラブル 7
Ret 6   クリスチャン・ドーヴェルニュフランス語版 ブガッティ・タイプ35C 46 メカニカルトラブル 2
Ret 10   グリエルモ・サンドリ (Guglielmo Sandri) マセラティ・8C英語版 41 メカニカルトラブル 4
Ret 36   アルベール・ペローフランス語版 アルファロメオ・6C英語版 18 ホイール脱落 16
Ret 26   ディエゴ・デ・スターリッヒイタリア語版 マセラティ・8C英語版 16 メカニカルトラブル 11
Ret 8   マルセル・ルフー英語版 ブガッティ・タイプ35C 7 ギアトラブル 3

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 1900年と1901年のポーグランプリ英語版は、(後の市街地サーキットではなく)ポーと近隣の都市間に周回路を設定した公道レース(当時の主流の都市間レース)として開催されている。1925年から北アフリカのイタリア領リビアトリポリグランプリ英語版が開催されているが、このレースもトリポリ市内ではなく郊外で開催されている。
  2. ^ この年のインディ500の決勝日は5月30日で、モナコGP出場後に船に乗っても間に合わなくはなかったが、これがインディ500初出場となるシロンは練習走行(5月初めから走行日が設定されていた)を充分に行うためにモナコGPの出場を見送ったと考えられている[4]。シロンは4月12日にインディアナポリス・モーター・スピードウェイに到着している[5]
  3. ^ 海側にプールが新設されたためで、この時にプールサイドの「コの字」区間が作られ、同時に最終コーナーもヘアピンから延長された[6]
  4. ^ 1962年モナコグランプリまでは、この位置にスタート/フィニッシュラインが置かれた[7]。その変更以前から、ピット入り口は「Gazometer」の先に置かれた(1970年代以降の改修でピット入り口はラスカスとアントニー・ノウズの間に移された)。

出典 編集

  1. ^ a b c d e L’Histoire” (フランス語(英語抄訳版)). Automobile Club de Monaco. 2023年5月21日閲覧。
  2. ^ モーターレース千夜一夜(ガレット/柏木1970)、「モナコでもグランプリを」 pp.188–190
  3. ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「モナコ・グランプリ」 pp.162–168中のp.164
  4. ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「モナコ・グランプリ」 pp.162–168中のp.167
  5. ^ Europe's Champion Arrives” (英語). The Indianapolis News (1929年4月13日). 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月21日閲覧。
  6. ^ オートスポーツ 1973年8/1号(No.123)、「モナコ・グランプリ エマーソン執念の追撃ならず!!」(Jane Mase) pp.35–38中のp.38
  7. ^ Denis Jenkinson (1963年7月). “1963 Monaco Grand Prix race report: BRM beats the street” (英語). Motor Sport Magazine. 2023年5月27日閲覧。

参考資料 編集

書籍
  • Richard Garrett (1969). THE MOTOR RACING STORY. Richard Garrett 
    • リチャード・ガーレット(著)、柏木二郎(訳)『モーターレース千夜一夜 裏から見たレースの歴史』三栄書房、1970年12月1日。 
  • 高斎正『モータースポーツミセラニー 世界自動車レースの軌跡』朝日ソノラマ、1998年10月1日。ASIN 425703548XISBN 4-257-03548-XNCID BA38536346 
雑誌
  • 『オートスポーツ』(NCID AA11437582
    • 『1973年8/1号 (No.123)』三栄書房、1973年8月1日。ASB:AST19730801 
配信動画